群集墳の急増と歴史的意義

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 六世紀中頃から直径一〇~一五メートルの小円墳で、横穴式石室を内部主体とする古墳が密集して築造されるようになる。このような群集墳の出現は、古墳時代社会の質的な変化を表している。首長層だけではなく、有力家族層までが古墳を造営できるようになった。五世紀代以前の箱式石棺墓群などの古式群集墳とは異質なもので、後期群集墳と呼ぶ。一般的には
 ①六~七世紀にかけて集中して造営される。
 ②少ないもので数基、多いものは数百基の古墳が密集して営まれる。
 ③一墳多葬で、横穴式石室を内部主体とするが、時には木棺直葬などもある。
といった傾向がある。
 しかし、個々の群集墳によって、その状況やあり方に差異があり、後期群集墳としての統一性や規格性があまりみられない。このことは、後期群集墳の発生が、政治的圧力などの強力的な政治的要因のもとに発生したものではなく、各集団が自立的に個別の群集墳を造営したと考えられる(太田宏明「類型化による群集墳の検討―西摂地域を中心として」『八十塚古墳群の研究』関西大学文学考古学研究室第七冊、二〇〇三)。
 各集団が個別に群集墳を造営した背景に、五~六世紀の生産力の発展に伴い、次第に有力な世帯共同体が出現、自立性を強め、古墳の造営が共同体社会の上位にある首長層から共同体社会を構成する中小家族層にまで広がったことを示している。共同体社会内の家族間の階層分化が進み、個別家族が自立性を強め、家父長制的家族に成長し、その家長と家族が高塚古墳を営むようになったのである。それだけではなく、五~六世紀における朝鮮半島の緊迫した情勢のもとに高度な技術を身につけた技術者が大量に我が国に渡来し、各種手工業技術や土木・水利技術などが飛躍的に進歩したために、古墳の造営も容易になったことも要因の一つにあげられる。
 群集墳には、鉄刀や鉄鏃などの武器や鉄製馬具などが副葬されることが多い。任那滅亡後、百済の劣勢が伝えられる中、ヤマト政権は西日本、特に九州の国造軍を編成し、たびたび百済救援に向かっている。国造軍は、対半島派兵のために支配下の有力小中首長層やその部下の有力農民層を自己の軍事力として軍事組織を編成したものと思われる。北部九州における群集墳が、磐井の乱以降に急増したことも、屯倉設置とともにヤマト政権による北部九州の支配体制が強化され、国造軍が多数編成されたことも背景にある。