全国で二〇万基ともいわれている古墳の内八〇%が、六世紀後半から末頃の群集墳である。京都平野も例外ではなく、古墳(群)は二八四ヵ所余りあり、古墳の数は二五〇〇基余と言われている。そのうち内部主体が横穴式石室である後期古墳(群)は二〇〇ヵ所で、一八〇〇基余を数え、古墳全体の七二%が後期古墳で、全国平均とほぼ同様の傾向であると言える。
京都平野は、後期古墳が圧倒的に多く、平野周辺の丘陵上には群集墳が密集している印象を受けるが、群集墳と呼べるものは、五〇基以上が六ヵ所、三〇基以上が三ヵ所を数えるのみで、ほかの一九〇ヵ所の群集墳はせいぜい五、六基から一五基程度の群で、群集墳と言うよりも古墳群と呼ぶ方が正しい。
群集墳のあり方としては、北側、中央西、南側の三ヵ所に分かれる。北側は小波瀬(おばせ)川上流域で、椿市廃寺が所在する徳永・福丸地区に野口古墳群、丸尾古墳群、福丸古墳群が各々五〇基前後の古墳群である。野口古墳群と丸尾古墳群は六世紀後半~七世紀初頭頃、福丸古墳群は六世紀後半~七世紀中頃か後半ぐらいまでで、時期差がある。
中央西側は長峡(ながお)川上流域で、池田道東古墳群と菩提(ぼだい)南古墳群が各々五〇基以上の群集墳があり、ほかに五位ノ木池西古墳群や勝山池西古墳群、菩提南古墳群の三ヵ所が三〇基前後の古墳群である。
南側は今川の上流域で、神手ヶ池古墳群が四〇基以上の群集墳である。
こうしてみると京都平野の四〇~五〇基の群集墳は、前方後円墳の後背地に群集する傾向がある。京都平野の北側は徳永丸山前方後円墳、夫婦塚前方後円墳が立地する東西に派生する舌状丘陵の後背地に三つの群集墳が造営されている。京都平野の中央西側では長峡川上流域東側は、庄屋塚前方後円墳、寺田川前方後円墳の西側後背地に三つの群集墳、長峡川上流域西側の扇八幡前方後円墳、箕田(みた)丸山前方後円墳の西側後背地に二つの群集墳が各々造営されている。京都平野の南側は姫神前方後円墳かあるいは大熊前方後円墳の後背地に群集墳が一つ造営されている。
これらの群集墳は、未調査のため副葬品や時期など詳細は明らかではないが、花崗岩の巨石横穴式石室で、時期は概(おおむ)ね六世紀後半に比定され、短期間に造営され、消滅していった群集墳と考えられる。
ほかの一〇~一五基の古墳群は、黒田地区や久保・津積(つつみ)地区に派生する舌状低丘陵毎に後期古墳群、巨石横穴式石室を内部主体とする円墳群を造営し、六世紀を中心として七世紀初頭頃には大半の古墳群は造営されなくなる。こうした状況は、各集団毎に有力農民層たちが家族墓を造営したもので、磐井の乱後における北部九州社会の変動に伴い、階層分化が進行し、古墳を造営できる有力農民層が急激に増加した結果である。
もう一つの前方後円墳の首長墓の後背地に形成された三〇~五〇基前後の群集墳は、前方後円墳を造営する有力首長層のもとに編成された軍事組織の成員墓で、磐井の乱後のヤマト政権の地方支配体制の強化とともに対朝鮮半島への軍事援助のために編成された国造軍に編入する有力首長層配下の軍事組織の成員たちの墳墓群である。ただこの時期の兵士たちは、専従の軍事組織成員ではない。多くは農閑期にのみ招集され、編成された軍事集団であったと考えられる(野田嶺志「古代の兵士─村の軍指揮者と兵士」『村のなかの古代史』岩田書院、二〇〇〇)。
徳永・福丸地区の福丸古墳群は六世紀後半から七世紀後半まで引き続き造営しているが、ほかの一〇~一五基の古墳群は、六世紀末~七世紀初頭における前方後円墳の衰退に伴う古墳造営の規制によって消滅している。国造軍に編入された対朝鮮半島のための軍事組織の兵士たちは、七世紀まで古墳造営を許されたのであろう。