横穴墓の源流

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 群集墳と同じような性格のものに横穴墓群がある。市内では昭和四九年(一九七四)から五一年にかけて発掘調査をした竹並(たけなみ)横穴墓群は、約一〇〇〇基の横穴墓を検出している。横穴墓は、大分県・上ノ原(うえのはる)横穴墓群や竹並横穴墓群の近年の調査で五世紀後半頃から造営されていることが明らかとなった。その起源を、横穴式石室に求める意見がある。
 また南九州では地下式横穴墓がある。地上部に前方後円墳や円墳の盛土があり、その下に「L」字形に掘削して造られたもので、床面プランは長方形プランが多い。宮崎県六野原(むつのばる)八・一〇号地下式横穴墓(図63)や下北方五号地下式横穴墓からは、眉庇付冑(まびさしつきかぶと)や横矧板鋲留(よこはぎいたびょうどめ)短甲、鏡板付轡(かがみいたつきくつわ)、垂飾付耳飾などが出土しており、五世紀中頃から後半に比定され、武人的性格の被葬者を推定させる。
 
図63 六野原古墳群地下室下式横穴墓と出土遺物
図63 六野原古墳群地下室下式横穴墓と出土遺物
1:六野原10号墳墳丘測量図,2:六野原10号地下式横穴実測図,3:土師器・壺,4:横矧板鋲留短甲,5:小札鋲留眉庇付冑,6:大刀柄頭,7:楕円形鏡板付轡,8:袋状鉄斧,9:U字形鋤先,10:鉄鏃,11:眉庇付冑

 竹並横穴墓群の初期の墓道は、「L」字形に直降するものではないが、斜降したのち玄門部に至り、玄室床面は水平になる。こうした墓道のあり方は、初期の竪穴系横口式石室にみられるもので、六世紀前後の横穴式石室の墓道が床面とほぼ水平になるとともに竹並横穴墓の墓道も水平に変化していることは、横穴式石室の影響をたえず受けて変遷していたと言える。
 また初期のA-3号墳やA-6号墳は、地上面に円形の墳丘を有し、一墳丘、一横穴のあり方は、横穴式石室古墳の一墳丘一石室と同様のあり方を示し、初期横穴墓は、横穴式石室古墳の影響と、地下式横穴墓の影響のもとに出現したものと考えられる。
 
図64 墳丘を有する初期横穴墓(竹並A-3号横穴墓)と出土遺物
図64 墳丘を有する初期横穴墓(竹並A-3号横穴墓)と出土遺物

 時期的にも玄界灘海岸部に出現した横口系石室は、当初は首長墓のみであったが、五世紀中頃から北部九州や有明海沿岸部に中小首長墓、円墳に採用され、広く分布するようになる。南九州の墳丘を有する地下式横穴墓や北部九州の墳丘を有する初期横穴墓が五世紀中~後半頃に出現することは、横口系石室の拡散時期と符合し、横口系の石室の影響を受けて出現したものと考えられる。
 また南九州の地下式横穴墓では豊富な武器・甲胄、それに武人に多く下賜された垂飾付耳飾などが発見されている。北部九州の初期横穴墓では、須恵器や土師器が大半を占めるが、鉄刀、鉄鏃など武器類も出土しており、大分県竹田市の扇森山横穴墓から横矧板鋲留短甲や、竹並横穴墓の三角板革綴短甲片は、南九州、北部九州ともに被葬者が武人的性格をもつ人たちであったと考えられる。副葬品の保有量の格差は、階層序列の格差と考えられ、南九州に比べ、北部九州の横穴墓の被葬者は、やや低いランクに位置付けられよう。