京都平野の横穴墓

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 京都平野の横穴墓群は、これまでのところ三〇ヵ所余である。横穴墓は墓道部が削平、露出しない限り、何基あるのかわからないので、もっと増える可能性がある。ほとんどの横穴墓群は、三〇~五〇基、多い方で一〇〇基余を数えるが、今川中流域東岸の竹並横穴墓群と、西岸の大将陣横穴墓群の二ヵ所のみ一〇〇〇基以上数える大横穴墓群である。竹並横穴墓群の周辺には、ヒメコ塚古墳、通り迫一号墳、豊津町の惣社古墳の六世紀後半代に比定される小型前方後円墳が築造されている。大将陣横穴墓群は未調査で、時期は明らかではないが、竹並横穴墓群は五世紀後半から八世紀にかけて造営されており、先の三基の首長墓だけでは理解できない。
 ほかの横穴墓群は、道場寺や豊津、天生田(あもうだ)、津積、岩熊、長木といった前方後円墳の首長墓とさほど遠くない山麓(さんろく)に分散して営まれていることから、中小首長層に服属する集団の一部が、造営したものと考えられる。黒添山麓古墳群、丸尾古墳群、福丸古墳群の三群の群集墳がある徳永・福丸地区周辺部には、横穴墓群がほとんど見られず、横穴式石室の群集墳のある有力首長層(徳永・福丸地区や黒田地区)と群集墳・古墳群・横穴墓群を保有する中小首長層とに分かれる。
 
図65 京都平野の首長墓と横穴墓群
図65 京都平野の首長墓と横穴墓群

 有力首長層を想定できない竹並横穴墓群・大将陣横穴墓群に埋葬された人たちは、竹並横穴墓群の一基あたり三~四体と見積っても両群合わせて八〇〇〇人余となる。竹並横穴墓群の副葬品の内容から中・小クラスの群集墳を構成している石室古墳と大差ないことが知られてきた。鉄刀、鉄鏃、刀子といった武器・工具・馬具類や金銅製環頭大刀、銀製圭頭大刀、鉄地銀象嵌(ぞうがん)の鞘尻(さやじり)金具など小地域の有力者家父長とその有縁者(家族・親族)などが含まれ、七世紀初頭頃、北部九州で最も早く畿内系土師器を副葬することなどから、ヤマト政権による対朝鮮半島派兵のために編成された軍事組織に関る人たちであろう。竹並横穴墓群が最も盛行する六世紀後半~七世紀初頭頃は、任那滅亡後、百済が最も救援を必要とした時期であることもうなずける。