我が国最大規模を誇る竹並横穴墓群は、総数一〇〇〇基余を数える。五世紀後半~七世紀後半代まで、二百数十年間造営され続けた横穴墓群である。
この横穴墓群を平面プランと断面形で大きく六つに分けることができる。
I期は、平面形隅丸長方形プランで、横断面カマボコ形を呈し、玄門は玄室床面より一段上がり、天井部も下がってくるので高さは低く、横幅も狭くなる。開口部を斜め上方に位置し、羨道は斜降する。古式須恵器を出土し、採集場所は明らかではないが、三角板革綴短甲片も表採されており、最も古い時期は、五世紀後半代で、五世紀前半~中頃に出現する可能性が高い。A‐二三号横穴墓などがある。
Ⅱ期は、平面形方形プランになり、横断面半月状、縦断面ドーム状を呈する。玄室床面は、羨道部と同じ高さになり、上からではなく、横から出入りするようになる。まだ側壁と天井部との明確な境はない。玄門は高さ、幅ともに狭く、羨道外に扉石(とびらいし)用の刳(く)り込みを掘る。A‐七号横穴墓などで、六世紀前半頃に比定される。
Ⅲ期は、平面形隅丸方形プランを呈し、玄門部もやや幅が広がり、長くなる。床面は玄室部が最も高く、玄門部が一段下がり、玄門羨道側で扉石用の刳り込みを掘り、羨道部は緩(ゆる)やかに斜降する。側壁は、天井部との境目に鴨居(かもい)段を付け、壁と天井を明確にし始め、壁を直立させ、平入(ひらい)りの屋根形の天井になる。玄門入り口には、門柱状に岩盤を掘り出し、左右に長方体を削り出している。D-四二号横穴墓などがあり、六世紀後半に比定される。
Ⅳ期は、玄室平面形は逆台形を呈し、玄門側へ狭くなる。横断面は壁と天井の境目の鴨居段(かもいだん)がなくなり、半円形を呈するようになる。縦断面は、奥壁が前傾に真っ直ぐ立ち上がり、天井は玄門部へ斜降する。床面は玄門部で二〇センチメートルの段を付け下がる。G-四二-一号横穴墓などがあり、六世紀末~七世紀前半頃に比定される。
Ⅴ期は、玄室平面形を台形プランにし、玄門袖部を内側に屈曲させ、明瞭になる。玄門部は羨道側へ細くなり、羨門部は「ハ」字形に外方に開く。床石は玄室が高く、玄門部で一段、そして羨門でさらに一段下がる。横断面は丸味のある三角形状を呈し、左右壁はかなり前傾するようになる。縦断面は奥壁が前傾に立ち上がり、屈曲したのち天井部を玄門へ斜降させる。門柱を削り出すものも見られる。A-三九号横穴墓などがあり、七世紀中頃に比定される。
Ⅵ期は、平面形横長の隅丸台形プランを呈し、側壁はかなり前傾させ、横断面は半月形である。縦断面は奥壁がほぼ直立気味に立ち上がり、天井部は平坦で、玄門部手前で斜降させ、平坦にする。床面は玄門部で二段、階段状に下がり、玄門から羨道部を平坦にする。G-一二一-一号横穴墓などがあり、七世紀後半に比定される。
このように横穴墓の形態は、初期の竪穴系横口式石室の影響を受けて出現し、方形プランに変化したり、持ち送りの影響を受けて天井部をドーム状にしたり、終末期には横長プランや小型化など横穴式石室の影響を受けながら変化していると言える。