竹並G-六九-二号横穴墓から金銅製の双龍環頭柄頭(そうりゅうかんとうつかがしら)が大刀(たち)とともに出土している。龍が左右に向い合い、中央の玉を囗に銜(くわ)え合っている。龍はかなり唐草文(からくさもん)化し、目は剌突文で円を描き、尾は双葉の唐草文で表現し、六世紀後半頃に比定される。
双龍環頭柄頭は、これまで四〇例余出土しており、前方後円墳からは二例、横穴墓から一例出土し、ほかは円墳などからの出土である。龍が半浮彫状のものを古式に、唐草文化した透彫(すかしぼり)状のものを新式として、新古二形式に分けられる。古式は北部九州から四国、山陰、中部、関東まで広く分布するが、六世紀後半以降の新式は、竹並G-六九-二号横穴墓など北部九州、山陰、東海、関東に分布し、東日本により密に分布するようになる。ヤマ卜政権は、六世紀前半の磐井の乱以降、東日本に軍事編成の主体を移していく中で、六世紀後半の北九州市小倉南区の八旗(やはた)神社一号墳や竹並G-六九-二号墳出土の双龍環頭柄頭は、特筆されるべきものである。ヤマト政権が対朝鮮半島への軍事介入に伴う前線基地としてこの豊前北部、とりわけ京都平野を重要視していたかが窺える。ヤマト政権直轄の屯倉を北部九州に八ヵ所も設置し、そのうち京都平野周辺に四ヵ所余りを設置していることからも裏付けられる。
竹並横穴墓群に埋葬された人々は、金銅製の双龍環頭柄頭や銀製圭頭大刀などを所有する上位クラスから鉄鏃のみや無遺物の下位クラスまでの軍事集団の成員たちを含んでいたのであろう。