古墳時代の文化を表すものに、前方後円墳とそこから出土する副葬品があげられる。有力首長層が埋葬された首長墓は、その地域の文化だけではなく、ヤマト政権や朝鮮半島との関りから、政治的な威儀具や階層序列を表象する儀礼的装身具などを副葬し、当時の文化を反映していると考えられるからである。
京都平野は、九州島の北東端に位置し、大和から瀬戸内海を航海して九州島に到着し、筑後に抜ける交通の要衝である。古墳時代の遺跡分布を見ると、周防灘は現在の蓑島(みのしま)から深く湾入し、当時の汀(なぎさ)線は草野、津熊、崎野、今井といった辺りが考えられ、その周辺部から古墳や集落跡が営まれている。沖積平野はその汀線からさらに北西方へ黒添地区、南西方向へは黒田、箕田地区へ、南には犀川、豊津へといったように八手(やつで)状に各流域が延びて形成されている。
首長墳は、この各流域の沖積平野を臨む位置に各々造営されている。古墳時代の交通路は、古墳の分布、とりわけ首長墳の立地と深い関係がある。
古代の官道は、西海道豊前路が苅田町宇原神社から西南方へ高城山の京都峠を越え、黒添、椿市を通り、南に下って黒田を通り、松田で西方向の仲哀峠を越えて香春に抜ける道と、反対に東方向へ津積、西谷、天生田を通り、国府を抜け、築城を通り南方向へ行く豊前路が想定されている。
古墳時代の交通路は、首長墳である前方後円墳の分布を参考にすると、苅田からそのまま山裾を通り、番塚古墳、御所山古墳を通り、新津(あらつ)、猪熊(いのくま)古墳群に至る。この丘陵には、三角板革綴短甲を出土した猪熊古墳群や百合ヶ丘古墳群が造営されており、五世紀前半~中頃にかけての武人的性格を有する首長層が存在した地域である。ここを通り、山なりに西方向へ曲がり、木ノ元幸一号墳の前方後円墳を通り、真っ直ぐ西方向に行くと、大量の畿内系土師器や初期須恵器を出土した黒添・法正寺地区遺跡群がある。三角縁神獣鏡を副葬した畿内系古墳である石塚山古墳の後背地にあり、ヤマト政権との関りを考える上で重要な遺跡である。六世紀には徳永丸山古墳や徳永夫婦塚古墳などの前方後円墳や、七世紀代には願光寺裏山古墳、引石古墳、野口一号墳など切石の単室横穴式石室の終末期古墳を造営し、七世紀末頃には椿市廃寺を建立する。百済系単弁八弁蓮華文軒丸瓦、重弧文軒丸瓦、高句麗系単弁六弁蓮華文軒丸瓦、新羅系扁行唐草文軒平瓦などが出土しており、犀川町木山廃寺、田川市天台寺、筑穂町大分(だいぶ)廃寺、豊津町上坂廃寺や平城宮の複弁八弁蓮華文軒丸瓦と同笵で、当時の広い交流が窺える。
これらに見るように古墳時代から古代を通じて、肥沃(ひよく)な小波瀬川上流域の沖積平野の農業経営を背景に有力首長層が台頭したのであろう。ただこの地域の前方後円墳は、三〇~四〇メートルで、長峡川上流域の八雷古墳や庄屋塚古墳の二分の一程度の規模で、京都平野での中心的な存在は、やはり長峡川上流域の首長層である。
この椿市を通り、古代では真っ直ぐ南に下るが、古墳時代は幸山の北裾部を東方向に進み、ビワノクマ古墳のある延永から西南方へ曲がり、長木(おさぎ)の八雷古墳、黒田の庄屋塚古墳、橘塚古墳、綾塚古墳を経て、長峡川を渡り、扇八幡古墳、箕田丸山古墳を南に下り、上久保に至る。
椿市から上久保に至る道は、先の黒田地区を通る道だけではなく、入覚(にゅうがく)の観音山西裾部にある直径二五メートルで三室の横穴式石室を内部主体とするバンリュー古墳が、一基単独で築かれており、椿市から入覚、長川(ながわ)、黒田に至る道もあったと考えられる。黒田地区西端の勝山古墳群は、現存する三基とも三室構造の横穴式石室を構築しており、入覚のバンリュー古墳の被葬者との交流が想定される。また入覚と黒田との間には、池田道東古墳群という五〇基以上の後期群集墳が造営されており、入覚経由の道も通交していたであろう。
箕田、上久保からは、菩提、仲哀峠を越えて香春(かわら)に抜ける道と、津積、西谷、天生田を経由する道は、御所ヶ岳、馬ヶ岳の北裾部を東西に走る道があり、大谷車堀遺跡、天生田矢萩遺跡、天生田大池遺跡ですでに官道跡を検出している。天生田の清地神社古墳は、直径二〇メートルで墳頂部の平坦面は広く、五世紀代に比定され、その上の丘陵上の迫古墳群は、径一〇~一五メートルの低墳丘墓で古式古墳の可能性が高い。さらに御所ヶ岳や馬ヶ岳から北へ派生する舌状丘陵上には各々巨石横穴式石室を内部主体とする後期古墳群が各集団毎に造営しており、古墳時代の道は、この前の道を通っていたことは想像に難くない。
天生田から今川に出ると、南の犀川町を通り、大坂峠を越える田河道と、今川を渡り、彦徳甲塚古墳の前を通り、惣社古墳、国府の前を抜ける豊前道とに分かれる。南に下り、今川をさかのぼる道は、馬ヶ岳から東南方へ派生する舌状丘陵が襞のように幾本も派生し、その舌状丘陵上には各々古墳群が形成されている。なかでも犀川町の姫神古墳は、全長三七メートルの前方後円墳で、六世紀前半頃に比定される。すぐ北の舌状丘陵先端部には、七世紀前半頃に比定される一辺二三メートルの方墳が三段築成で築造している。対岸の丘陵上には横矧板鋲留短甲を出土した長迫古墳もある。またその南には八世紀初頭前後に建立された木山廃寺があり、五~七世紀にかけてこの今川沿いの道は、田河(たがわ)に抜ける重要な道の一つであった。
大型円・方墳の彦徳甲塚古墳、甲塚方墳を通り、全長三〇メートルの惣社前方後円墳を抜けると国府に出て、築城、宇佐に行く豊前路の古代官道であり、古墳時代もおそらくこの道を通っていたと思われる。
このほかに、主要道ではないが、天生田、今川から矢留、泉を通って惣社古墳にもどる道は、二升五合古墳の径三〇メートルの大型円墳やヒメコ塚前方後円墳、竹並横穴墓群などが分布しており、重要な生活道の一つである。もう一つ海岸寄りに道場寺、高瀬、馬場、元永、沓尾から海浜の長井、稲童を廻り、徳永にもどるところにも、五世紀後半の馬場代二号墳は横矧板鋲留短甲を副葬し、海浜の稲童二一号からは眉庇付胄と三角板・横矧板鋲留短甲など豊富な副葬品が出土する。また全長六八メートルの帆立貝式前方後円墳の石並古墳など分布しており、周廻する道も重要な生活道であったと考えられる。