京都平野は、門司、到津から南下する道と、京都平野から香春、あるいは田川(河)へ抜ける道、それに宇佐、豊後へ下る道の三差路に位置すると言える。これは古墳時代に限られるわけではなく、縄文、弥生時代においても姫島産黒曜石の動きや、石斧、石庖丁など石器の動きを見ても明らかであるし、また古代においても寺院建立に伴う同笵瓦の動きが示している。
特に古墳時代においては、四世紀後半以降、ヤマト政権の朝鮮半島への軍事介入とともに、オンドル遺構や木葉文の線刻画にみる渡来人との関り、それに対朝鮮半島への前線基地としての役割は、中小古墳からの武器、甲胄の副葬や葬送儀礼、あるいは六、七世紀に造営された数ヵ所の一〇〇〇基以上の大横穴墓群の造営などからも窺える。それに石障系石室、複室構造の横穴式石室などから有明海沿岸部との交流もあったことがわかる。
こうした京都平野における古墳文化の特質は、豊前という地域におさまらず、北部九州や東アジアにおける倭国の動向に連動していたと言え、単なる交通の要衝地ではなく、古墳時代を通して東アジア情勢の縮図としてとらえることができる。