三世紀頃に出現した前方後円墳も、六世紀末ないし七世紀初頭頃には全国的に消滅していく。最後の大王墓と言われる奈良県の見瀬丸山古墳は、全長三一〇メートルの前方後円墳である。楯形の周濠を含むと全長三九〇メートルとなり、六世紀代最大規模の前方後円墳である。内部主体は巨石を用いた全長二六メートルの横穴式石室で、中に二基の家形石棺を安置する。時期は六世紀後半で、欽明天皇陵に比定されている。この欽明天皇の子の用明天皇、その後を継いだ崇峻天皇そして推古天皇の三代の天皇が揃(そろ)って方墳を採用している。このように大王墓が、六世紀後半から末頃に、前方後円墳から方墳に変化している。
この方墳化には二つのことが考えられる。一つは、六世紀中頃以降の全国の前方後円墳に墳丘規模の縮小傾向が見られ、一方で中小円墳の群集墳が急増する。これはヤマト政権の地方有力首長層に対しての古墳の規制があったと共に、有力家族層の古墳造営が始まったことによる。六世紀前半の磐井の乱以降、ヤマト政権による有力首長層を介しての間接地方支配体制から、ヤマト政権による中小地域首長層や有力家族層への直接支配体制の進展によるものである。有力首長層(地方豪族)の衰退と共に地方における前方後円墳の墳丘規模が縮小し、さらに簡略な形状の方形を採用したと思われる。
二つ目は、用明天皇は欽明天皇の子で、母は堅塩姫(きたしひめ)で、大臣(おおおみ)の蘇我稲目(そがのいなめ)の娘であり、後の推古天皇の母でもある。また用明天皇の後を継いだ崇峻天皇の母の小姉君(おあねぎみ)も、蘇我稲目の娘である。蘇我馬子の墓と言われる奈良県石舞台古墳も方墳である。大王墓の方墳化に蘇我氏が関っていたことは想像に難くない。こうした中央での前方後円墳から方墳化への動きは、蘇我氏と関りのある地方の氏族が方墳を採用するようになり、さらにその氏族と交流のあった中小地域の有力首長層も方墳を採用し、広まったのである。