京都平野の方墳

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 京都平野では首長墓として単独墳の方墳は、三~四基数える。豊津町の甲(かぶと)塚方墳は、六世紀後半~末に比定され、最も古い。東西四六メートル、南北三六メートルの長方形墳である。石室は南に開口し、横幅の広い長方形墳である。墳丘規模は用明天皇陵には及ばないものの崇峻天皇陵に匹敵し、中央豪族並みの墳丘規模であることは甲塚方墳の被葬者の身分序列がかなりの高位であったことが窺える。
 橘塚古墳も一九九五・六年の調査で方墳であることが確認された。南北三九メートルであるが東西は不明である。複室の横穴式石室で全長一七メートルで、甲塚方墳が全長一二メートルの複室構造の横穴式石室であることを勘案すれば、橘塚古墳の東西幅は四九メートルとなり、崇峻天皇陵と同一か、それ以上の墳丘規模であったことになり、長峡県主(ながおのあがたぬし)としての位置付けを推しはかれよう。
 
図78 畿内と京都平野の方墳
図78 畿内と京都平野の方墳

 今川上流域の三ッ塚方墳は、三段築成の一辺二三メートルである。八世紀初頭頃に私寺木山廃寺を建立した有力首長層に継承されてゆく七世紀前半~中頃の首長墓としての位置付けができよう。
 このように京都平野の方墳は、畿内と同様に横長形の長方形墳から方形墳への変遷が辿(たど)れ、その墳丘規模は、大王墓に匹敵するほどの中央豪族並みの墳丘規模を有し、また西日本で最も早い段階、大王墓の方墳の採用とほぼ同時期に京都平野も方墳を採用していることなどからもヤマト政権と密接な関りを想定でき、対朝鮮半島への橋頭堡的な立場であったことが窺える。