畿内系土師器(きないけいはじき)の導入

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 六世紀末頃からの畿内の影響は、首長墓の方墳の採用だけではなく、生活必需品の土器にも現れる。畿内系土師器とは、やや深い椀や皿、高杯の内面にタテ方向にヘラ先による暗文(あんもん)(器面をこすって光沢を出した文様)を放射状に施したもので、その器の胎土も砂粒が少なく、乳褐色の精製土器である。畿内から持ち込んできた土器や畿内産土師器の作り方を伝達されて、こちらで作った土器も含めて畿内系土師器と呼ぶ。この畿内系土師器は、少なくとも六世紀末頃には、竹並横穴墓群に副葬され、七世紀初頭~前半頃に京都平野周辺部に広まり、住居跡などからも出土するようになる。
 
図79 竹並横穴墓群出土畿内系土師器
図79 竹並横穴墓群出土畿内系土師器

 六世紀末頃には竹並横穴墓のA-48号墓などで、口径一一センチメートル、高さ五センチメートルの椀が見られる。やや平底気味の丸底で、深身のもので、内面を中心に暗文を施し、外面には見られない。七世紀前半頃には竹並D-46号墓などで口径一四センチメートルと口径が広がり始め、七世紀中頃には竹並G-11号墓などのように高坏や坏蓋、坏身、台付皿、皿など器種がバラエティーになる。それとともに在地系の脚付壺などにも暗文を施文するようになる。
 このように畿内系土師器は、北部九州でも最も早い段階に京都平野に導入されたということである。その導入は竹並横穴墓群などに周辺部の住居跡よりもやや早く導入され始めることから、対朝鮮半島への軍事介入とともに、この京都平野は前線基地としての役割を担ったことと無関係ではない。横穴墓群からの副葬が最も早いことから、軍事組織を介して畿内からいち早く導入され、広まったことが窺われる。