北部九州の終末期古墳

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 大分市の古宮(ふるみや)古墳は、標高五〇メートルの丘陵先端部に築かれた方墳である。内部主体は九州唯一の横口式石槨である。墳丘規模は南北一二・四五メートル、東西一二・一五メートル、高さ四・九メートルで、一尋(ひろ)=一・七五メートルと換算すれば、各々七・一一尋、六・九四尋、二・八尋となり、大化の薄葬令にみる上臣クラス「方七尋、高三尋」と符合する。石室は、一尺=二九・五センチメートルの唐大尺で換算すると、全長九尺、幅五・五尺、高さ六尺となり、ほぼ唐大尺を用いていることがわかる。
 
図80 古宮古墳
図80 古宮古墳

 大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)は天武四年(六七五)、大分君恵尺(えさか)は天武八年(六七九)に各々亡くなっている。恵尺は地方出身の舎人(とねり)としては破格の従三位(じゅさんみ)を、稚臣は正五位(しょうごい)を贈られている。とりわけ恵尺は壬申(じんしん)の乱で功績があり、地方出身としては最高の行賞である。このような冠位を持つ上臣が、大化の薄葬令に沿って横口式石槨を築きえたものと思われる。
 古宮古墳以外の北部九州の終末期古墳を見ると、前・中・後期の三時期に分けることができる。前期は前方後円墳から方墳に変化した六世紀末頃~七世紀前半頃まで、中期は七世紀中頃前後に、後期は七世紀後半~末頃である。
 前期は、さらに二小期に分かれ、六世紀末~七世紀初頭頃の後期古墳の様相を強くひき継いでいる古墳で、甲塚方墳や綾塚古墳、橘塚古墳などがあり、複室の横穴式石室である。墳丘形態は方墳と円墳があり、前方後円墳はない。
 前期後半は、壱岐・笹塚古墳や対馬・矢立山一号墳などで、後期古墳の様相を一部ひき継ぐが、終末期に一歩近づく段階と言えよう。笹塚古墳の平面プランは複室であるが、天井石は玄室のみ高く、前室は羨道部の高さと同一になる。そして各室の間仕切りに柱石を立て明確にする。石積は疑似切石積(ぎじきりいしづみ)石室を呈し、自然石積みより整然とし、石材の加工をノミで平坦にするが、切石積のように小敲(こたた)きや水磨(みずび)きするものは見られない。技法では鍵状加工が出現し、加重の分散とズレを防ぐ技法が見られる。積石技法は、重箱技法を基本としながらも一部斜め積技法や煉瓦積技法を施す。
 中期は、行橋市福丸の引石(ひきいし)古墳や願光寺裏山古墳、長崎県の対馬・矢立山二号墳などがある。前期では玄室のみ天井石が一段高くなっていたが、中期では玄室から羨道部まで同一の高さになる。また複室がなくなり、玄室と羨道の境界の袖石に柱石状のものを立てる場合もあるが、羨道部の側壁の一部として同化し始める。玄室には巨石を用い、羨道部の側壁は、玄室側壁の石材より小型化し、明らかに玄室を中心にした石槨化が始まる。玄室と羨道部を明確に区分し始め、羨道部が短くなる傾向は、畿内の横口式石槨の影響を受けたものと思われる。
 後期は、福間町手光波切不動尊(てびかなみきりふどうそん)古墳や津屋崎町宮地嶽(みやじだけ)古墳、大分県古宮古墳があげられる。切石造りの精美な横穴式石室で、最奥部の奥室は横口式石槨の影響を受けて小型化する。
 宮地嶽古墳は、宗像君徳善の墓とされており、直径二一・八メートルで、七世紀後半に比定される。一尋=一・七五メートルとすると一二・四五尋となり、大化の薄葬令を順守していないと言える。大化の薄葬令は、地方まではなかなか浸透しなかったようである。
 
図81 北部九州の終末期古墳変遷図
図81 北部九州の終末期古墳変遷図