モガリ(殯)

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 殞は、“喪(も)あがり”からきているという説がある。「喪」とは、人の死後、その親族が一定期間、世を避けて家に籠(こも)り、身を慎(つつし)むことである。この殯は、我が国古来の葬送儀礼で、『魏志倭人伝』に「始め死するや停喪十余日、時に当たりて肉を食わず、喪主哭泣(もしゅこっきゅう)し、他人就いて歌舞飲食す。」という記事がある。卑弥呼の時代には、死後十数日は埋葬しないで、肉を食べず、喪主は泣き続け、他人は共に飲食し、歌い踊ったとある。韓国では、つい最近まで葬儀に『泣き屋』を雇うという。
 終末期古墳時代の七世紀は、『隋書倭国伝』に、「死者は棺槨を以って歛め、親賓は屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服を製す。貴人は三年外に殯し、庶人は日を卜してうずむ」とある。死者を棺に納め、親族はそばで歌い踊り、妻子兄弟は白衣を着用する。そして身分の高い人は三年の間、外で殯をし、庶民は亀の甲を焼いて、そのひび割れで、日を占い、埋葬するとある。
 このように我が国では、少なくとも卑弥呼の時代よりある程度の日数は殯を行っていたようである。『隋書倭国伝』には、貴人は「三年外に殯し」とある。『日本書紀』、『続日本紀』を見ると(表12)、天皇の殯の期間は、二ヵ月~五年八ヵ月まで、かなりの差があることがわかる。
 
表12 『日本書紀』・『続日本紀』の殯史料
表12 『日本書紀』・『続日本紀』の殯史料

 欽明天皇の殯期間は、四ヵ月間であるが、欽明天皇陵と言われる六世紀後半の奈良県見瀬丸山古墳は全長三一〇メートルの前方後円墳で、四ヵ月では到底造れない。おそらく生前から築造していた「寿陵(じゅりょう)」であろう。
 地方の有力首長層では、五世紀前後の熊本県・向野田(むこうのだ)古墳は、舟形石棺に女性首長層が埋葬されていた。その人骨の出土状態から関節部の軟部組織が腐朽して関節状態が乱れてしまうほどの数力月以上の殯期間ではなかったことが判明している。
 また六世紀後半の愛媛県葉佐池古墳の人骨に二種類のハエのサナギ殼が付着していた。一つはニクバエ属で、死後すぐに死体にたかるハエである。もう一つはヒメクロバエ属で、新鮮な死体にはたからず、腐肉にたかり、死後三~四日後にたかるハエである。このことから死後すぐに埋葬せずに、四、五日後以降の殯ののち埋葬していることがわかる。
 五世紀後半の鹿児島県の島内(しまうち)六九号地下式横穴墓は、初葬に男性、追葬に女性を埋葬する。女性の骨盤腔内から骨盤腔外にかけて、S状結腸から直腸の走行にそって便状の物質が認められ、骨盤腔外に噴出された状態で、一かたまりの大便状の物質も検出されている。この大便は、死後に噴出されたもので、腸管内に死後ガスが発生し、充満した腹圧によって結腸、直腸内に残されていた大便が噴出したものである。一週間前後の殯ののちに埋葬されたことがわかる。
 これらの事例は、『日本書紀』巻二神代下の記事にみられる「八日八夜、大声をあげて泣き、悲しんでは歌った。」の記事と概(おおむ)ね符合する。家長は生前に「寿陵」を築き、死後一週間前後の殯ののちに埋葬されるのが、一般的であったと思われる(田中良之「人骨および付着ハエ囲蛹殼からみた殯について」『葉佐池古墳』松山市文化財調査報告書第九二集、二〇〇三)。