終末期古墳のなかに単独墓で、北側の後背地を「U」字形か「コ」字形に周溝を掘削し、石室を南方向に開口し、前面には川が流れているような立地に造営する古墳がある。大分県の古宮古墳は、北側を山、横口式石槨の開口は南方向に、東西両側の丘陵は南に延び、「U」字形に古墳を囲み、前面には毘沙門(びしゃんもん)川が流れる。北九州市の八王寺(教会内)古墳も標高五〇メートルの山を背にして、南向きに開口した石室で、東西両側の丘陵はやや南に延びて「U」字形に古墳を囲み、前面には板櫃(いたびつ)川が流れる。また南面する川向こうには屏風(びょうぶ)のような山丘がある。
このような立地の古墳は、後背地に主山(西の白虎・北の玄武・東の青龍)で「U」字形に真ん中の「穴(けつ)」(明堂(めいどう))を取り囲み、前面に内水が流れ、向かい側に案山・朝山が屏風のようにそびえる。そのような地形(図83)は風水思想に基づく立地と言え、子孫繁栄を願った立地で、「蔵風得水(ぞうふうとくすい)」の地勢と呼ぶ。
七世紀以降に新しく伝来した大陸系の思想で、中央・地方の貴族層が、墳墓地を選定するにあたって、陰陽五行(いんようごぎょう)説から発達した風水思想を取り入れたものと思われる。
朝鮮半島では、百済武寧王陵のある扶余の陵山里古墳群もこの立地を撰んでいる。
京都平野では、南向きに開口する古墳は、橘塚古墳、甲塚方墳などあるが、後背地に山丘がそびえ、前面に川が流れる立地は、願光寺裏山古墳がこの風水思想を取り入れ、この地を撰んでいる可能性がある。