終末期古墳は、七世紀後半代に入って、新たな古墳の造営を停正し、追葬による埋葬によって七世紀末に及んでいった。この頃畿内では、舒明天皇が八角形墳を造営し、その後天武・持統天皇合葬陵、文武天皇陵(奈良県中尾山古墳の可能性が高い)が八角形墳である。八角形墳は全国で関東から畿内まで六基ほど確認されているが、九州ではこれまでのところ確認されていない。この中で持統天皇は、文献において最初に火葬された天皇とされ、金属製の蔵骨器を夫である天武天皇の墓室(おそらく横口式石槨と思われる)に納めたとされる。持統天皇が亡くなったのは七〇二年である。
最も早いのは、『続日本紀』文武天皇四年(七〇〇)三月一〇日の条に、僧道昭が死亡し、粟原(あわはら)(奈良県桜井市粟原)の地で火葬したとあり、「天下(あめのした)の火葬此(これ)より始まれり」とする。
古墳時代の六世紀以前から、墓室ごと火葬する窯塚(かまづか)と呼ばれるものがあるが、複数の人を同時に火葬しており、火葬骨を骨蔵器に入れて埋納する個人墓とは異なる。また土坑墓で火葬骨を埋納している例もみられるが、火葬して骨蔵器に収納する場合、全ての火葬骨を納めることはできない。火葬した場所に火葬骨と炭が残されており、それらと見分けがつかないおそれがある。したがって骨蔵器に入れられていない炭と火葬骨については、火葬墓であるのか、そうでないものか注意する必要がある。