京築地方の火葬墓

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京築地方でも何基かの火葬墓が見つかっている。図86の骨蔵器には、豊前市荒堀の恵光園(社会福祉施設)建設の際に発見されたと伝えられているものであるが、その出土状況が明らかではなく、詳細は不明である。二の土器は、須恵器の高台付広口長頸壺の口縁部を欠いているもので、八世紀初頭頃に比定され、京築地方では最も古い時期である。三は双耳付長胴瓶形品で、九世紀に比定され、二と三の百年の間に骨蔵器が存在した可能性がある。
 一は築上郡(ちくじょうぐん)椎田町水原所在の広幡城遺跡の一号火葬墓である。八世紀前半~中頃に比定される土師器皿と須恵器直囗壺である。この時期のものは、北九州市小倉南区貫所在の御座(おんざ)遺跡からも発見されており、京築地方ならびに周辺部には、おそらく八世紀前半位に火葬墓が広まったものと思われる。
 七世紀後半の椿市廃寺をはじめ八世紀初頭~前半頃の木山廃寺や上坂廃寺の建立など行橋市周辺への仏教文化は八世紀代に入ってから受容されつつあったことを示している。
 
図86 京都平野周辺の火葬墓
図86 京都平野周辺の火葬墓