須恵器

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 五世紀になると、須恵器の生産が開始される。須恵器は、朝鮮半島南部からの渡来人が陶質土器の製作技術を日本列島に伝え成立したもので、青灰色を呈する硬質の土器である。ろくろを使用して器を成形し、登り窯(がま)に入れて一〇〇〇℃以上の還元焔(えん)で焼成し、最終段階で燻焼(くんしょう)する(図90)。須恵器の器種には、坏(つき)・高坏・壺・甕・甑(こしき)などがあり、また、飯蛸壺形土器や棒状上錘などの漁撈具も焼かれていた。
 
図90 窯の模式図
図90 窯の模式図

 大阪府堺市・和泉市・岸和田市・南河内郡狭山町にまたがる陶邑(すえむら)窯跡群は、国内で最も早い段階で本格的に操業を開始した窯の一つであり、北部九州にも須恵器を供給していた。
 このほかにもほぼ同時期の窯跡が各地で見つかっており、そのうちの一つが京都郡豊津町徳永にある居屋敷窯跡である。出土した遺物は𤭯(はそう)・甕で、𤭯は完形品で、高さ一四・一センチメートル、口径九・四センチメートルである(写真17)。
 
写真17 居屋敷窯跡出土𤭯
写真17 居屋敷窯跡出土𤭯

 また、五世紀代の初期須恵器は、市内からも見つかっている。竹並遺跡・下稗田遺跡・鬼熊遺跡・福富小畑(ふくどみおばた)遺跡から出土している。