「食者天下之本也、黃金万貫不可療飢、白玉手箱何能救冷、夫筑紫国者、遐邇之所朝届、去来之所関門、是以海表之国候海水、以来賓、望天雲而奉貢、自胎中之帝、洎干〓身、収蔵穀稼、蓄積儲粮、遙設凶年、厚饗良客、安国之方、更無過此、故〓遣阿蘇仍君[未詳/也]、加運河内国茨田郡屯倉之穀、蘇我大臣稻目宿爲宜遣尾張連、運尾張国屯倉之穀、物部大連麁鹿火宜遣新家連、軍新家屯倉之穀、阿倍臣宜遣伊賀臣、軍伊賀国屯倉之穀、修造官家那津之口、又其筑紫肥豊三国屯倉、散在縣隔、運輸遙阻、儻如須要、難以備卒、亦宜課諸郡分移、聚建那津之口、以備非常、永為民命、早下郡縣令知〓心」
(『日本書紀』宣化元年の詔)
この宣化元年の詔は三つの部分に分けることができる。
A「食は天下の本なり。黄金万貫ありとも、飢を癒(いや)すべからず。白玉千箱ありとも、何ぞ能(よ)く冷を救わん。夫(そ)れ筑紫国は、遐(とお)く邇(ちか)く朝(もう)で届(いた)る所、去来(ゆきき)の関戸(せきと)にする所なり。是を以て、海表(わたのほか)の国は、海(しお)水を候(さぶら)いて来賓(まう)き、天雲を望(おせ)りて貢奉(みつぎたてまつ)る。胎中之帝(ほんだのすめらみこと)より、朕(わ)が身に洎(いた)るまでに、穀稼(もみいね)を収蔵(おさ)めて、儲糧(もうけのかて)を蓄え積みたり。遙に凶年に設け、厚く良客(まろうど)を饗(あえ)す。国を安みする方(さま)、更に此に過ぐるは無し」
B「故(かれ)、朕(われ)、阿蘇仍(あその)君[未だ詳ならずを]遣して、加(また)、河内国の茨田(まんだ)郡の屯倉(みやけ)の穀を運ばしむ。蘇我大臣稲目宿禰(そがのおおおみいなめのすくね)は、尾張連を遣して、尾張国の屯倉の穀を運ばしむべし、物部大連麁鹿火(もののべおおむらじあらかび)は、新家連を遣して、新家屯倉の穀を運ばしむべし、阿倍臣は、伊賀臣を遣して、伊賀国の屯倉の穀を運ばしむべし。官家(みやけ)を、那津(なのつ)の口(ほとり)に修(つく)り造(た)てよ」
C「又其(か)の筑紫・肥・豊、三つの国の屯倉、散(あか)れて県隔(とおきところ)に在り。運び輸(いた)さんこと遙に阻(へだた)れり。儻如(も)し須要(もち)いんとせば、以て率(にわか)に備(そな)えんこと難(かた)かるべし。亦諸郡に課せて分(くば)り移して、那津の口(ほとり)に聚(あつ)め建(た)てて、非常に備えて、永(ひたす)ら民の命とすべし。早く郡県に下して、朕(わ)が心を知らしめよ」
A・B・Cの三つの部分について次のように説明されている。1
Aの部分で、食は天下の本であるとし、筑紫国は大陸への玄関口に当たり、外国の使節が来るところなので「胎中之帝」(応神天皇)の時から穀稼を収蔵して、凶年に備え使節をもてなして、国を安んじてきたという。しかし、穀稼を広い筑紫国のどこに収蔵したか明らかにしていない。文脈からたどるとBの部分で遠く畿内やその周辺から穀稼が運ばれてきて「修造」される以前からすでに那津の口には官家の建物があることが推測でき、その設置された時期の基準に「胎中之帝」という名称を使用している。この「胎中之帝」という名称は神功皇后伝承にちなむもので史実とは言い難い。また、Aの部分で使用されている言葉の多くは中国の『漢書』に関係があると先学によって指摘されていることからもAの部分はある時期に作文されたものだとする。
Bの部分は従来、この部分の「茨田屯倉」、「尾張国屯倉」、「新家屯倉」、「伊賀国屯倉」などの、畿内およびその周辺から穀稼を那津の口の官家に運んだということは史実として考えられてきた。しかし、近年の研究成果によると運んだのは那津の口ではなく「難波津」であったと考えられており、その史実性を否定されている。
Cの部分は筑紫・肥・豊の国々に散在している屯倉の穀稼を那津の口に「聚め建て」外敵の侵入などの非常に備えるということを強調している。「筑紫・肥・豊、三つの国の屯倉」を安閑元年(五三四)設置の「穂波・鎌・〓碕・桑原・肝等・大抜・我鹿・春日部」の八屯倉と、それに粕屋屯倉を加えたものをさすと理解しそれらの屯倉と関係をもって、那津の口に「聚め建て」られたのが、那津官家であるということは史実と考えてよい。
以上、長洋一氏が説明しているように筑紫・肥・豊の国々に散在している屯倉の穀稼を那津の口に「聚め建て」られたのが那津官家であると理解できる。そうなると、次は那津官家の所在地が問題となる。従来では福岡市南区三宅の三宅廃寺跡周辺と考えられていたが、近年の発掘調査で博多区比恵遺跡からも官衙的遺構が検出されることから、博多区比恵遺跡もその候補の一つになっている。今後の発掘調査に期するところである。