『日本書紀』推古天皇一七年(六〇九)四月四日条において筑紫大宰の名が初見する。同条によると筑紫大宰が肥後国の葦北津に百済僧道欣ら僧俗八五人が来泊していることを奏上している。筑紫大宰の奏上にこたえて朝廷は難波吉士徳麻呂と船史竜を遣わし、葦北に来た百済の人々に事情を聞く。難波吉士徳麻呂はその事情を朝廷に報告し、朝廷はこれに基づき百済の人々を本国へ送還することを決定し、再び難波吉士徳麻呂と船史竜を遣わして百済の人々を送っていくことを命じている。
この事件を整理すると次のようになる。まず、肥後国の葦北津に百済僧道欣ら僧俗八五人が来泊したという情報を筑紫大宰が入手してそれを奏上する。それを受けた朝廷は難波吉士徳麻呂と船史竜を遣わすなどして慎重に対処して百済人の本国送還を決定する。ただしこの決定は筑紫大宰の判断ではなく、朝廷の判断によるものである。大化前代において筑紫大宰がこのほかに二例ほど出てくる。皇極二年(六四三)四月および六月条がそれであるが、両条においても筑紫大宰は中央へ奏上するのみで事件に関する判断は下してはいない。
以上の経過から考えられることは、筑紫大宰の事績は後の大宰府のそれとほとんど差異がないことである。このことから、筑紫大宰とは中央から那津官家に派遣された官人であることが考えられる2。この筑紫大宰の下にはそれ相当の組織が属したであろうが、その実態は明らかではない。今後の研究に期するところである。ところで、天智二年(六六三)の白村江の敗戦後、筑紫大宰とその管理組織は那津官家から現在の都府楼の地(福岡県太宰府市)に移ったと考えられている。飛鳥浄御原令で筑紫大宰府として再編され、吉備大宰などの他地方大宰は国へと発展的に廃止されるものの、この大宰府だけが大宝令で整備されることになる。