大宰府は『和名抄』によると「於保美古止毛知乃司」と記載するように、「大国司」の官衛と理解されていた。この「大」は「大君」が「君」(地方の豪族)を統るという意味を持つように、国司を総管する地位を示すものであった。「ミコトモチ」は天皇の命令を奉持して地方を治める官人を意味する。すなわち、大宰府の長官(帥)は天皇の命令をうけて西海道を総管する権限を付与されていた。
まず、地方の国司の職掌は『養老職員令』によると、
「掌。祠社。戸口簿帳。字養百姓。勧課農桑。糺察所部。貢挙。孝義。田宅。良賤。訴訟。租調。倉廩。徭役。兵士。器仗。鼓吹。郵駅。伝馬。烽候。城牧。過所。公私馬牛。闌遺雑物。及寺。僧尼名籍事」(『養老職員令』)
「掌らむこと、祠社のこと、戸口の簿帳、百姓を字養せむこと、農桑を勧め課せむこと、所部を糺し察むこと、貢挙、孝義、田宅、良賤、訴訟、租調、倉廩、徭役、兵士、器仗、鼓吹、郵駅、伝馬、烽候、城牧、過所、公私の馬牛。闌遺の雑物のこと、及び寺、僧尼の名籍の事」
となっているが、大宰府の長官(帥)はそれに「蕃客、帰化、饗讌の事」が加えられていた。「蕃客」とは外国使節、「帰化」とは外国人が天皇の徳治を慕ってその支配下に入ることを意味する。「饗讌」とは外国使節などを接待することであるが、当時、大饗宴を「饗」といい、小饗宴を「讌」と称して区別していた。これらの用字は中国大陸の統一国家である「隋・唐」の制度をもとにしたと考えられている。日本国も大唐国を「隣国」、新羅・渤海などの日本に朝貢する国を「蕃国」と区別していることから、接待する国によって使い分けられていたかもしれない。その外国使節を接待する所は
「饗高麗邯子・新羅薩儒等於筑紫大郡」(『日本書紀』天武天皇二年一一月二一日条)
「高麗(こま)の邯子(かむし)・新羅(しらぎ)の薩儒等(さちぬら)に筑紫の大郡(おおごほり)に饗(あへ)たまふ」
「於筑紫小郡、設新羅弔使金道那等」(『日本書紀』持統天皇三年六月二四日条)
「筑紫の小郡(をごほり)にして、新羅の弔使金道那等(とぶらひこむだうなら)に設(あへ)たまふ」
「饗霜林等於筑紫館」(『日本書紀』持統天皇二年二月一〇日条)
「霜林等(さうりむら)に筑紫館(つくしのむろつみ)に饗(あへ)たまふ」
に見られるように、天武・持統朝においては「筑紫の大郡」・「筑紫の小郡」・「筑紫館」の名が確認できる。この大郡・小郡に関して外国使節を接待する施設として難波にも「難波の大郡」(『日本書紀』欽明天皇二〇年是歳条)・「難波の小郡」(『日本書紀』敏達天皇一二年是歳条)などの迎賓館相当施設があることから、筑紫にも同様な施設が存在したことがわかる。「筑紫館」は『日本書紀』持統紀のほか、『万葉集』(巻一五・三二六五二~五)にも見られることから持統朝以降も存続し、平安時代には「鴻臚館」にその名称をかえる。「筑紫館」を「筑紫の大郡」・「筑紫の小郡」を総称するものと理解する説もあるが、三施設同時に並立した可能性もある。今後の研究に期するところである。このほか、大宰府には外国使節が持参した「国書」および貢物などを規定どおりであるか確認する権限も与えられていた6。
また、『養老職員令』には「防人正一人・主船一人」と記載している。「防人」の初見は周知のように『日本書紀』大化二年正月甲子条の改新の詔の第二条においてであるが、改新詔の史料としての信憑性について疑問があることから、大化二年(六四六)に初めて筑紫に設置されたとは考えにくい。ただし、白村江の敗戦後の天智三年(六六四)に筑紫大宰が那津官家から現在地(福岡県太宰府市)へ移駐した際に防人が初めて律令的に制度化された可能性が高い。
防人制は大宝・養老令制定の時期を通じて、天平初年(七二九)の諸国防人の廃止までほぼ軍防令の規定にしたがって実施されていた。「主船」とは「ふねのつかさ」ともいわれ、公私の船の管理を行った所である。畿内においては難波に所在した。「古記」によると大宰府にもあったとし、その成立年代7から天平一一年(七三九)にはすでに成立していたことがわかる。その比定地は現福岡県福岡市西区周船寺一帯と考えられている。さらに天平一二年(七四〇)、ときの少弐であった藤原広嗣が乱を起こす。その際、広嗣はその地位を利用して諸国の軍団を率いていた。このことから、大宰府は防人・軍団等の軍事機能を総管する権限をも持っていたことがわかる。
最後に財政についてふれることにする。律令期における財政制度では「租」を各国の財源にあて、「調」・「庸」などは中央の財源として京進させる構造になっていた。しかし、西海道の場合は大宰府に集積され、一定額の京進は義務づけられてはいたものの、多くは府官人の禄や外国使節の接待などの府用にあてられた。代表的な京進物として「綿」があり、それは上質なものとして国家財政上も重視された。また、筑豊肥の三前三後六国は租稲の一部を府用に貢進し、さらにほかの諸国島にも送っている。このように西海道では諸国島がそれぞれ独自の行政を行い、それを大宰府が統轄したのである。