律令下の地方官制は国・郡・里(後に郷と改称)の三段階の組織で地方行政が行われた。国は、その中を幾つかの「郡」に分け、郡をさらに幾つかの「里」に分けて、それぞれ国司、郡司、里長が設置された。そのほか地域によっては難波津を管轄する摂津職(延暦一二年〔七九三〕に廃止されて摂津国となる)、西海道の行政と辺防・外交事務のことにあたる大宰府などの特殊な官司が設置される。国司は中央官人が交替で赴任する官職で、諸国に設けられた国府にあって地方社会の統治を行った。これに対して、郡司は在地の有力豪族層が任ぜられた官位非相当の終身官で、国司の監督下にあって律令支配を実現するための各種の職務を遂行した。律令国家の公民支配の基本単位は「戸」であり、五〇戸を一里に編戸して一里一巻の戸籍を作成したが、里長はその五〇戸の有力戸の中から選ばれ、里内の戸口の把握、勧農、そして徴税などの役目を負わされていた。
国郡里制は、大宝律令(七〇一年)で成立したとされるが、霊亀元年(七一五)に、里を郷とし、郷の下に二、三の里を置いた。さらに天平一一年(七三九)には里を廃したため、国郡郷里制から国郡郷制へという仕組みに変わった。