行橋市域は、明治二九年(一八九六)まで、ほぼ長峡川、井尻川を境として、西側が京都郡、東側が仲津郡に分かれていた。しかし、長い年月の間に、郡境や河川の流路は、各所で少しずつ移動したことも考えられる。
『和名抄』で仲津郡に入っている蒭野郷や狭度郷などがそれにあたり、草野は後に京都郡に、狭度郷の一部も後に築城郡になった可能性もある。
京都郡
京都郡は豊前国北部に位置し、現在の苅田町、勝山町から行橋市の西部をその郡域とした。北は企救郡、東は周防灘、南は仲津郡、西は田川郡に接する。郡名は『和名抄』では「美夜古」と記しており、その訓は「みやこ」であろう。『日本霊異記』(上巻・三〇)では「宮子郡」とも記される。
『日本書紀』景行天皇一二年九月条によれば、景行天皇が筑紫にいたり、豊前国長峡県に行宮を営んで住んだので、この地を京と名付けたとある。
諫山郷
京都平野の西端に位置する。『日本書紀』持統四年(六九〇)に「薩夜麻(さちやま)」、天智一〇年(六七一)一一月に「筑紫君薩野馬(つくしのきみさちやま)」、安閑元年(五三四)閏一二月に「筑紫国膽狭山(いさやまべ)」が見える。また、長徳五年(九九九)正月の大宰府解状に京都郡の不知山長松の名が見えるが(『本朝世紀』長保元年三月七日条)、諫山郷と関わりのある者と考えられる。郷域は諫山・久保・黒田の諸村と推定される。
本山郷
『和名抄』伊勢本・東急本は「本山」とし、『和名抄』高山寺本は「本田」とする。「地名辞書」では郷域を「今詳ならず白川村、小波瀬村などにあたるか、高来郷の北に接す」とするが推定地は定かでない。
刈田郷
長徳五年正月の大宰府解状には賀田郷が見え(『本朝世紀』長保元年三月七日)、賀田郷と刈田郷は同一のものと考えられる。訓は「カタ」または「ガタ」であったと推定される。『延喜式』兵部式諸国駅伝馬条には「刈田駅」が見え、駅馬五疋を備えていた。現在の苅田町苅田あたりにその所在地と推定されている。安閑天皇二年(五三五)には「肝等屯倉(かとのみやけ)」が京都郡刈田郷一帯に設置されたと考えられる(『日本書紀』安閑天皇二年四月条)。郷域は旧苅田町の諸村と推定される。
高来郷
平尾台の東麓、小波瀬川上流域に位置する。『本朝世紀』長保元年(九九九)三月七日条に京都郡平井寺で雨米の祥瑞(しょうずい)のあったことが見え、この平井寺の所在地について、はじめ高来郷内としていたが、賀田郷内であったと改められている。郷域は高来と中心とした旧椿市村一帯と推定されている。
仲津郡
豊前国中部に位置する。現在の行橋の東部と豊津町、犀川町を郡域とした。北は京都郡、東は周防灘、南は築城郡・下毛郡、西は田川郡・京都郡に接する。『和名抄』では「那珂都」と記しており、その訓は「なかつ」であろう。郡名の初見は大宝二年(七〇二)の「豊前国仲津郡丁里戸籍」である。『豊後国風土記』には豊国直等の祖菟名手(うなて)は景行天皇から豊国に派遣されたが、豊前国仲津郡中臣村で白鳥が餅になり芋になるのを見たと記されている。
呰見郷
大宝二年の豊前国仲津郡丁里戸籍には、丁勝巻手(まさのまきて)の妻に「阿射弥勝布施売(あさみのまさのふせめ)」の名が見える。呰見郷に関係のある者か。郷域は呰見(旧祓郷村=現豊津町)とその周辺と推定されている。
蒭野郷
『和名抄』高山寺本では「蒭野」、『和名抄』伊勢本・東急本では「蒭見」となっている。当郷には草野津が所在した。『類聚三代格』所収の延暦一五年(七九六)一一月二一日付官符によれば、天平一八年(七四六)、草野津などから漕ぎ出した官人百姓商旅の徒が、豊前門司の勘過を経ず難波に入船することを禁じた。しかし、その後も禁を破る者多く、大宰府の訴えにより延暦一五年(七九六)の大政官では、公私の船が大宰府の過所を有するか否か、豊前門司の勘過を経ているか否か摂津国司がチェックするように命じている。『類聚三代格』では草野津の訓を「カヤノ」としている。郷域は小波瀬川右岸の草野一帯と推定される。
城井郷
『宇佐大鏡』所載の宇佐公順処分状には「城井 仲東郷城井浦四至〈限東屋岡 限南高座 限西仲西郷高屋浦上道 限北加女淵〉」と見える。郷域は祓川上流の山間部の城井、伊良原一帯と推定される。
狭度郷
大宝二年の豊前国仲津郡丁里戸籍には「狭度勝大海(さとのまさのおおうみ)」、「狭度勝小赤売(さとのまさのこあかめ)」の名が見える。狭度郷に関係のある者か。『太宰管内志』は佐和多利と訓むべきかとしている。『地名辞書』によれば「今上城井村、伊良原村なるべし、上城井に大字寒田あり、蓋狭度の訛りなり、此地は彦山求菩提山の北麓にして築城川(上城井村)祓川(伊良原村)の源とす、即中世以降には城井谷と称したる山谷の中なり」としている。
高屋郷
大宝二年の豊前国仲津郡丁里戸籍には「高屋勝羊(たかやのまさのひつじ)」、「高屋勝伊佐売(たかやのまさのいさめ)」の名が見える。高屋郷に関係のある者か。当郷は城井郷の西にあった。蔵持山の山麓、今川の支流高屋川の流域が郷域であっただろう。現在、犀川町に上高屋・下高屋の遺称地がある。
中臣郷
大宝二年の豊前国仲津郡丁里戸籍には「中臣部泥売(なかとみべのどろめ)」が見える。また、『豊後風土記』には、豊国の地名起源説話中に「仲津郡中臣村」が見える。郷域は草場を中心とした一帯と推定されている。
仲津郷
『太宰管内志』には「古に仲津郡の郡家を置かれし処なるべし」と記されている。当郷に仲津郡の郡家が設置されていたのであろう。郷域は旧仲津村一帯と推定される。
高家郷
『太宰管内志』や『地名辞書』では高屋郷と重複したものではないかとしている。訓はあるいは「タケヘ」か。推定地は未詳である。