律令国家と隼人国

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 隼人国である大隅国と薩摩国の成立は八世紀の初頭である。この両国の成立の背景として律令国家の版図の拡大と画定があった。
 その隼人国が成立し、国府が設置されることになると、現地では少なからず抵抗が生じた。大宝二年、薩摩国(唱更(しゃうかう)国)が新設された年には薩摩と多褹(たね)で抗戦がおこり、和銅六年(七一三)に大隅国が新設されたときにも抗戦がおこった。
 このような抗戦の鉾先は、律令政府の行為を代行する国司などに集中的に向けられる。養老四年(七二〇)に大隅国守殺害という事件が発生し、以後一年数ヵ月にわたって抗戦は続いた。律令政府はその征討のため大伴旅人を将軍に任命し、大規模な遠征軍を派遣し、ようやくこれを鎮圧した。
 このように、隼人国(大隅国と薩摩国)の新設には少なからずその現地で抵抗が発生し、しばしば長期にわたる戦乱に発展している。律令政府はその対策の一環として薩摩国には肥後国から、大隅国には豊前国よりそれぞれ二百戸の人々を隼人の地に強制移住させる。ここでは、豊前国から大隅国への移住を中心に概説したい。