大隅国の成立と豊前国からの移住

530 ~ 532 / 761ページ

** 文中の※印をクリックすると参考文献のページに遷移します

 八世紀の初めに、あいついで新設された大隅・薩摩両国は、それ以前には日向国に属していたとみられる。大隅・薩摩両国が新設される以前の記述として『続日本紀』大宝二年(七〇二)四月壬子条に「筑紫七国」の語句が見える。筑紫とは九州のことであるから、やがて九国になるはずであるが、この時期までは七国であった。すなわち、「筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向」の七国でいまだ大隅・薩摩両国は見えず、日向国に包括されていた。その日向国は、すでに『続日本紀』文武二年(六九八)九月の記事に、朱沙(赤色顔料)を献上した一国としてその名が見えている。その日向国からやがて大隅・薩摩両国を分立させることになる。
 大隅国が日向国から分立し、新設されたのは和銅六年(七一三)であった。
 
「割日向国肝坏(きもつき)・贈於(そお)・大隅(おほすみ)・姶𧟌(あひら)四郡、始置大隅国」(『続日本紀』和銅六年四月乙未条)
「日向国の国肝坏・贈於・大隅・姶𧟌の四郡を割きて、始めて大隅国を置く」
 
 この記事は大隅国が日向国の四郡を分割して成立したことを伝えている。
 大隅国の成立が薩摩国の成立より遅れたのは、その施行に困難な条件があった。その主因は大隅には曽君・大隅直などの強大な勢力をもつ隼人勢力があり、その分断が困難であったからであろう。したがって、律令政府としては国の分立に困難のより少ない薩摩国のほうから先に成立させ、薩摩国の体制がある程度落着するのをまって、大隅国の分立に着手したとみられる。
 大隅国府の設置も曽君の本拠地とみられる鹿児島湾奥部が選定された。まもなく贈於郡を割って桑原郡(国府所在郡)が分立する。国府の地域占定か、隼人の首長層を刺激したことはいうまでもなく、両国とも国の成立の時期には抗戦があったことが確認される。薩摩国ではその抗戦も短期間で規模も大きいとはいえないが、大隅国の場合は長期にわたり規模も大きく継続する様相をみせる。
 律令政府はその対策の一環として薩摩国の国府を肥後国の移民で固めたように、大隅国の国府は豊前国を主とした移民で固めた。
 
「隼人昏荒野心、未習憲法。因移豊前国民二百戸、令相勧導也」(『続日本紀』和銅七年三月壬寅条)
「隼人、昏荒野心にして、憲法に習はず。因りて豊前国の民二百戸を移して、相勧め導かしむ」
 
 大隅国が成立した翌和銅七年(七一四)に豊前国よりの移民が行われたことがわかるが、それが隼人の地のどこへ移ったかについては記されていない。
 しかしながら、その移住先は大隅国の国府所在郡の桑原郡であった。それを示す史料をかかげる。
 
「桑原郡(郷名) 大原・大分・豊国・答西・稲積・廣田・桑善・仲川([用津三/国中川字])」(『和名抄』大隅国桑原郡条)
 大隅国の国府所在郡の桑原郡には『和名抄』によると、全八郷のうちに「大分郷・豊国郷」の名称があって豊前国あるいは豊後国との関連が見出だせる。また、答西郷は豊前国上毛郡多布(塔)郷と、仲川(中津川)郷は豊前国仲津郡仲津郷などとの関係をも指摘されており、このことからも、大隅国桑原郡の成立に豊前国が深く関与していたことがわかる。
 では、豊前国から大隅国桑原郡に移住した二〇〇戸は人口にしてどれくらいの数であろうか。沢田吾一氏は大宝二年の西海道諸国の戸籍をもとに西海道の一戸あたりの平均戸口を二四・九人と算出している1。中村明蔵氏は豊前国に限定してその戸口のわかる上三毛郡塔里、上三毛郡加自久也里、仲津郡丁里の三里、計二八戸分について試算して2、一戸あたりの平均戸口を二五・四人と算出している。大隅国桑原郡に移住した移民は豊前国からの移民のため、中村氏の算出した数値で二〇〇戸分の人口を計算すると五〇八〇人となる。このことから、大隅国の国府を新設する際には約五〇〇〇人の人々が豊前国から移住させられていたことがわかる。なお、薩摩国の場合、高城郡(国府所在郡)において肥後国からの移住で成立した郷は国府の周辺に配置され、特に隼人との対応においては国府防衛の任務も帯びていたと考えられている3。豊前国から大隅国桑原郡に移住した移民も『続日本紀』和銅七年三月壬寅条に記されるように、律令政府に従わない隼人たちの教化のみならず、国府防衛の任務をも帯びていたと考えられ、国府の周辺に配置されていたことが想定される4