筑紫君磐井の乱の際、豊の地の豪族は磐井に同調したと考えられ、乱後の安閑期において、〓碕(みさき)・桑原(くわはら)・肝等(かと)・大抜(おほぬく)・我鹿(あか)の五屯倉が集中的に設置される。この頃から、豊前の地はヤマト政権との深い関係を持つことになる。
また、斉明天皇が百済救援のため西下してくるが、その際にも豊国とヤマト政権との関係が深まることになる。斉明天皇は西下の途中、伊予の石湯(道後温泉)に長く滞在して朝倉宮に入る。朝倉宮と石湯とは豊後道を経由して別府湾に至り、そこから豊予海峡を通るルートでつながっている。さらに石湯からは一路難波に通じるが、このように豊国は朝倉宮と大和へ通じるいくつかの港のある重要なところであった。約二ヵ月間、石湯にいた斉明天皇のもとに、九州からもたらされる情報は豊前の地を含む豊国を通るし、逆に石湯から九州に向けて出される命令などもそこを通るしかなかった。このような情況下での大分君・豊国造豊国直などの存在価値は大きく、天皇とともに西下していた大海人皇子と大分君との結びつきもこうしたなかで緊密になったと考えられる5。
次に、薩摩国の国府周辺に移民を送り出した肥後国はどうであろうか。
筑紫君磐井の乱の際、肥後地方を拠点とする火君は中立的立場をとったかもしくはヤマト政権に同調したと考えられる。そのために、乱後、ヤマト政権のバックアップもあってかつて筑紫君が支配していた地域に進出する6。
また、天平八年(七三六)度の『薩摩国正税帳』には出水郡の大領として肥君の名が見える。
大領外正六位下勳七等 肥君
少領外従八位下勳七等 五百木部
主政外少初位上勳十等 大伴部足床
主帳无位
大伴部福足
(天平八年度『薩摩国正税帳』出水郡推定部分)
この出水郡は移住が行われた高城郡(国府所在郡)とともに律令的公民として「隼人十一郡」とは区別されていた。すなわち、薩摩国成立の際、出水郡は高城郡(国府所在郡)とともに中核をなしていた郡であり、肥君はその大領であった。このことからも火(肥)君は筑紫君磐井の乱後からヤマト政権とのつながりを深めていったことがわかる。
このように、大隅・薩摩両国に移民を送った豊前国と肥後国は筑紫君磐井の乱後から屯倉の設置などを通じヤマト政権とはかなり接触しており、早い時期にその支配下に組み入れられた地域であった。豊前国と肥後国にしてもヤマト政権との早くからの安定した関係があったことに、移住民を送り出すより大きな要因があったとみられる。