豊前からの文化移植

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 大隅国府周辺には豊前国を中心とした地域からの移住が行われ、二〇〇戸、約五〇〇〇人の人々が居住することになったが、その人々がもたらした影響についてみておこう。
 大隅国の場合にはその痕跡が見出だせるため以下にとりあげることにする。
 大隅国には『延喜式』(神祇)によると五座が記されている。
  桑原郡一座 鹿児島神社
  囎唹郡三座 大穴持神社
        宮浦神社
        韓国宇豆峯神社
  馭謨郡一座 益救神社
 
 このうちの馭謨郡所在の益救神社は屋久島で、この一座だけはかけ離れているが、ほかの四座は相互に隣接する桑原郡と囎唹郡に集中している。鹿児島神社は姶良郡隼人町、大穴持神社と韓国宇豆峯神社は国分市、宮浦神社は姶良郡福山町にそれぞれ所在する。
 まず、移住地の大隅国桑原郡の郡名について考えてみたい。大宝二年の豊前国戸籍断簡には氏名として「秦部」が全体の約四九%を占めている。渡来系の秦氏に従属した集団の秦部は、秦氏のもとで養蚕を始め、鉱産資源の開発などの技術をもっていたと推定される。移住地の郡名も、かれらの養蚕技術と関連があったために桑原郡になったのであろう。
 さらには、移住に際して豊前地方の信仰を奉持し、集団の守護神として祭ったことが考えられている。とりわけ、国府の所在する国分平野の西にある鹿児島神社(現・姶良郡隼人町所在の鹿児島神宮)と、東に所在する韓国宇豆峯神社(現・国分市所在)が注目され、いずれも式内社である。