ところで、大宝二年(七〇二)の戸籍としては、正倉院に伝わる美濃(御野)国と西海道諸国(豊前国も含む)のものが有名である。ここでその体裁を明らかにするため、それぞれの戸籍の任意の一戸をあげることにする。
これらを通覧してすぐに気づくのは、同じ大宝二年の戸籍でも、美濃国と西海道とでは、その体裁がまったく異なることである。
例えば、
①美濃国戸籍は一行に三名ずつ戸口を記すのに対して、西海道諸国戸籍では一行に一名ずつである。
②美濃国戸籍は戸口を男女の順に並べているが、西海道諸国戸籍では戸主・戸主の母・戸主の妻・戸主の子というように、戸主との関係によって並べている。
③美濃国戸籍は戸主と同姓のものは姓が記されていないが、西海道諸国戸籍では原則としてすべての戸口の姓が記されている。
④美濃国戸籍は国印が捺されておらず、西海道諸国戸籍では国印が捺されている。
以上の様々な点で両者の体裁は大きく異なっている。戸令第一九条によれば、戸籍は「式」によって作成されることになっていたのであるから、同じ年次の戸籍でこれだけ体裁が異なっているのは、それぞれ戸籍の作成にあたって依拠した「式」が異なっていたからだと考えられている。美濃国戸籍は浄御原令に付属していた式にもとづいて作成され、西海道諸国戸籍は大宝令の式によって作成されたと想定されている。大宝二年の豊前国戸籍断簡も大宝令の式によって作成されたのであろう2。
前にも説明したように、戸籍の基本となる編成単位は「戸」であり、その「戸」は、当時の国制の中に最末端の行政組織として位置づけられ、隣組を作って助け合うとともに、相互監視も行うシステムであった。その「戸」の人口は果たして何人ほどであったのであろうか。沢田吾一氏は現存している西海道諸国の大宝二年の戸籍全体のデータから一戸あたりの平均戸口について二四・九人と算出している3。さらに、中村明蔵氏は豊前国に限定してその戸口のわかる上三毛郡塔里・上三毛郡加自久也里・仲津郡丁里の三里、計二八戸分について試算しており、一戸あたりの平均戸口を二五・四人と算出している4。