なお、和銅七年(七一四)、大隅国が日向国から分立する際に、隼人の教化と国府防衛のために豊前国より二〇〇戸(約五〇〇〇人)の人々が桑原郡(国府所在郡)に移住させられている。桑原郡には『和名抄』によると豊国郷・大分郷のほかに中津郷・答西郷の郷名も確認でき、中津郷は豊前国仲津郡、答西郷は豊前国上三毛郡塔里の人々の移住によって成立したと推定されている5。この説に従うと、二〇〇戸(約五〇〇〇人)の一部は大宝二年の豊前国戸籍断簡に記されている地域の人々と推定され、この大宝二年の豊前国戸籍が作成された一二年後の和銅七年に当該地から隼人の地へ移住させられたと考えることができる。