最後に、大宝二年の豊前国戸籍断簡における豊前国上三毛郡塔里・上三毛郡加自久也里戸籍と豊前国仲津郡丁里戸籍との相違について説明したい6。
西海道諸国の戸籍は大宰府に指導されたかと思われる程高度の統一性を保っている。特に、上三毛郡戸籍と仲津郡戸籍はどちらも勝姓者一秦部姓者という階層構成を有し、十二支に因(ちな)んだ個人名が他国より格段に多いこと、さらに、男女口分田の班給額もまったく同一であることなどで共通性が高いことを指摘されている。しかし、その細部においては郡(郡衙)レベルの造籍方針の差によって生じたと思われる相違がある。
第一は美濃国戸籍と同様に、女子の名称がかなり異なることである。上三毛郡・仲津郡の両郡戸籍において十二支に因んだ個人名が多いのは共通することであるが、上三毛郡には、「犬手売(いぬてめ)」・「牛手売(うしてめ)」のように十二支に「手(堤)」の付く名称が多いのに対し、仲津郡では「犬売」・「牛売(うしめ)」という名称になっており、十二支に「手(堤)」の付く名称はかなり少ない。また、女子名として最も一般的と思われる「刀自売(とじめ)」は上三毛郡においては皆無であるが、仲津郡は六名も見られる。
次に、両郡の造籍のありかたそのものにも相違があったようだ。表5を参照されたい。
西海道各郡の一〇歳代の戸口を集計したものである。仲津郡にのみ一三歳児がただ一人で、それを補うかのように一四歳児が大きく増加している。大宝二年(七〇二)戸籍における一三歳児は庚寅年の生まれで当時一歳だった人々であり、仲津郡でのみ庚寅年の出生児がただ一人であったことは他郡の数値からして信じ難いことである。おそらく、仲津郡では造籍に際し、庚寅年生まれの幼児たちをほとんど一括して、前年の己丑年生まれとして登録してしまうような特異な操作がなされたと考えられている。
第三に、残疾(ぜんしち)・廃疾(はいしち)・篤疾(とくしち)の分布にも、両郡には実態そのものとみなすにはどうかと思われる相違がある。表6を参照されたい。
上三毛郡は総人口の約一%、仲津郡は約五%が残疾・廃疾・篤疾であるが、地理的にも類似し、また近接した両郡において、仲津郡にのみ、このように多くの重病人や身体障害者が分布したことは信じ難い。
籍帳作成の実務や戸口の実状把握は郡司の手にゆだねられており、残疾・廃疾・篤疾の実質的認定権は郡司にあったと考えられている。郡司レベルで課・不課をめぐって、故意的な造籍が行われ、その差が表6のような結果となって現れたと推定できる。