豊前国府については、『和名抄』に「国府在京都郡」とあるのが、唯一の資料である。ところが、仲津郡に属する国分寺の近くに総社が祀られ、「在庁屋敷」の地名が存在することから、国府は仲津郡に存在し、したがって、『和名抄』の記述は誤りか、郡界の移動があったとする解釈が、近世以来一般的であった。
それに対し、平野邦雄2は、初期の国府を行橋市津熊(図2B)に考定し、後に同市の草場に移転したとする説を発表した。平野は、京都平野の条里を復原した結果、長峡川と井尻川とにはさまれた津熊付近のほぼ一〇町余の地域が、北一〇度西の方位の土地割を示していて、京都平野一般の条里地割が南北の方位をとっているのと異なることに注目した。そして、その北に位置する恒富八幡宮を通る条里の東西線が、条里の基線と考えられることから、津熊の地を国府跡とし、恒富八幡宮を国府八幡宮に比定した。平野によれば、津熊は京都郡に所属するので、『和名抄』の誤記や郡界移動を考える必要がないことになる。そして、和気清麻呂と仲世の豊前国司任命後、いくばくもない頃、秦氏から宇佐和気氏への古代勢力の交替や交通路の変遷などにより、草場へ移転したとする。
これに対して、木下良3は、津熊は、延久四年(一〇七二)の『宇佐大鏡』に見える宇佐神宮領津隈荘の地に当たるとした。すなわち、当地は、古代の海岸線に近く、今川・長峡川の合流する低湿地に当たるので、開発荘園の地としては適当であるが、国府は、一般的に平野部でも山麓(さんろく)に近い渓口部に立地することが多いので、国府としては不適当であるとした。そして、『和名抄』の国府所在郡は、九世紀頃、特に貞観三年(八六一)以後の状況を示すとして、国府は、仲津郡の豊津町国作(図2D2)から京都郡に移転し、さらに「在庁屋敷」の地名が残る仲津郡の草場に移転したとした。国作の国府については、方六町で、国庁は、小字「中小路」付近が適当であるとする。
次に戸祭由美夫4は、当初の国府は、京都郡に属する行橋市須磨園(すまぞの)に所在した(図2C)が、藤原広嗣の乱の後、仲津郡の国作に移転し、承平年間(九三一~九三七)までに、再度、須磨園に移転したとする論文を発表した。須磨園の国府について戸祭は、方六町(図3A’-C-G-E)を考え、付近の「幸ノ山」、「幸寄」などコウのつく地名に注目している。
以上のような歴史地理学的研究を検討してみると、次のようなことが言えよう。
①平野説は、木下の批判によって、成り立たない。
②戸祭説は、一〇世紀前半以降の国府は京都郡にあったとするが、一般的に一一世紀後半頃以降になって成立したとされる総社が仲津郡にあることについて説明がつかない。ただし、京都郡の国府を具体的に想定したことは評価できる。
③以上の点から木下説が最も妥当である。ただし、平安時代末の状況を示すとされる三巻本『色葉字類抄』や『拾芥抄』、一三世紀中頃の状況を示すと考えられる一〇巻本『伊呂波字類抄』が、いずれも国府所在郡を京都郡としていることにはふれていない。