国府の発掘

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 以上のような豊前国府についての歴史地理学的な考察が存在したが、昭和五一年(一九七六)および五三年(一九七八)の、豊津町教育委員会の発掘調査によって、国作付近で、大溝や青磁、白磁、瓦などが出土5し、この地に国府が存在した可能性が高まった。そこで、同町教育委員会によって、昭和五九年(一九八四)から、本格的な発掘調査が始まり、平成元~六年(一九八九~九四)までの調査によって、国作の小字「御所」、「宮ノ下」の地で、政庁が検出された6。ここを中心として、南北約六五〇メートル、東西約四九〇メートルの範囲に遺構が分布しており、現在、一部が、豊前国府跡公園として復原整備されている。
 
写真3 豊前国府跡公園
写真3 豊前国府跡公園

 政庁地区については、五時期の変遷が考えられている。
○第I期(六世紀第3四半期~八世紀前葉)
  遺物が整地層や包含層などから出土し、集落が広がっていたことが想定されるが、政庁建設の際に破壊されたと推測される。
○第Ⅱ期(八世紀中葉~九世紀中葉)
  政庁の南西隅で、東西棟の掘立柱建物跡(長さ一〇・五メートル、幅四・五メートル)と溝跡が確認されている。
○第Ⅲ期(九世紀後葉~一〇世紀後葉)
  政庁は、南北一〇五メートル、東西七九・二メートルの範囲を築地塀で囲まれ、その内部には、広場を中心に、南側に八脚門(長さ六・八メートル、幅三・四メートル)、東側には、南北に長い脇殿(長さ三八・四メートル、幅四・九メートル)を配置している。ただし、これは、二棟の建物である可能性もある。正殿と西脇殿は、未発見である。
○第Ⅳ期(一一世紀前葉~一二世紀前葉)
  新しい政庁が建設され、東脇殿(長さ三〇・二メートル、幅六・〇メートル)を政庁地区北東部に建築している。
○第Ⅴ期(一二世紀中葉~一三世紀前葉)
  政庁地区で豪族居館と推定される、方形にめぐる大溝を検出しており、この時期、国府は衰退していたと考えられる。
 
図4 豊前国府推定地調査区配置図
図4 豊前国府推定地調査区配置図

 
図5 政庁地区遺構配置図
図5 政庁地区遺構配置図

 一方、政庁地区の西隣りに位置する惣社地区の調査では、七世紀から一三世紀にかけての掘立柱建物を約一八〇棟検出しており、その中には、役人の住居と考えられる南北両面に廂を持つ建物や、床面積八〇平方メートルの倉庫もあった。また、調査地区の北部には、東西方向に走る幅約一二メートルの直線道路も検出されている。
 
図6 惣社地区全体図
図6 惣社地区全体図