以上が国府の発掘調査の概要であるが、これを、歴史地理学の想定と突き合わせてみると、まず政庁検出地は、ほぼ木下の想定地に当たったので、歴史地理学的な手法の有効性をある程度示すことになったといえよう。ただし、遺構が九世紀後葉から一〇世紀後葉のものだったことが、新たな問題を提起することになった。
すなわち、『和名抄』の国府所在郡の記事は、一〇世紀前半の状況を示すと考えられる7ので、この時期に国府は、京都郡になくてはならないが、仲津郡で、第Ⅲ期の政庁が検出されたからである。郡界の移動は考えがたいので、次のような可能性が考えられる。
①『和名抄』の国府が京都郡にありとするのは、仲津郡の誤記である。ただし、ほかの古辞書類もすべて、国府を京都郡とする点が問題である。
②『和名抄』の示す時期についての再検討が必要か。肥前国府の場合も『和名抄』には、国府は小城郡にありと書かれているが、最近の大和町教育委員会による国府の再調査8によれば、佐嘉郡で発掘された政庁は、八世紀後半から一〇世紀後半まで存続するので、この場合も『和名抄』とは不一致になる。
③現在、国府とされている遺構がそうではないのか。後述するように、Ⅲ期の政庁は、一般的な国府の政庁の遺構と比べると、やや特殊な点が見られる。しかし、ほかの遺構の可能性として考えられるのは、仲津郡家であるが、郡家としては規模が大きく、また、九世紀後葉という時期は、一般的に郡家の衰退時期に当たる。
次に、遺構についても、豊前国府の場合、様々な問題点を残している。まず、Ⅲ期の東脇殿の柱穴が、一般的な国府の脇殿の柱穴と比較すると貧弱である。また、Ⅲ期の正殿と西脇殿の遺構が、おそらく削平のためと考えられるが検出されていない。また、中門の存在もやや特殊であるが、肝心の南門ははっきりしない。
さらに、八世紀代の政庁が未検出である。典型的な政庁の出現時期は、全国的に八世紀の前半から中頃にかけてのものが多い9。西海道の国府の場合も、筑後国府10は、七世紀末、肥前国府11は、八世紀後半、最も遅いとされる日向国府12においても九世紀初めには、典型的な政庁が出現している。したがって、豊前国府のみが、九世紀後葉まで、政庁が整備されなかったとは考えがたい。特に、惣社地区においては、八世紀後半代の瓦が出土している点が注意される。
すなわち、Ⅱ期の典型的な政庁が、本来存在したが、削平等によって、遺構が消滅したか、Ⅲ期政庁とは別地にあって、まだ未検出であると想像することができる。そのように考えると、Ⅲ期政庁は、その次の段階の政庁であって、先に述べたような遺構の特殊性についても理解できるかもしれない。