律令国家が地方支配の拠点として、各郡に設置した役所が郡家である。
仲津郡家の候補地としては、次の三ヵ所がある。
①行橋市草場小字「上氷(うえごおり)」
日野尚志13の説で、コオリ地名がしばしば、郡家の想定地に存在することによる。『豊前国風土記』総記に豊前国仲津郡中臣村の豊国直の伝承があり、中臣郷を『太宰管内志』は、行橋市草場に比定している。「上氷」付近に位置する豊日別神社(草場神社)は、宇佐勅使が立ち寄る古社で、日野は、豊国直が祭祀(さいし)した神社で、豊国造の本貫地を示すと推測する。仲津郡の前方後円墳は、五世紀後半の石並古墳を除くと、六世紀中葉から後半にかけての築造で、京都郡に比べて、土豪の成長は遅れたと考えられる。また、「上氷」から、南約二キロメートルに存在する上坂(かみさか)廃寺は、郡司層が建立した寺院と見なされる。
②行橋市南泉長者原(ちょうじゃばる)遺跡14
直角に屈曲する溝と、これに平行して、八世紀代の遺物を出土する溝を検出している。付近の字図から、東西一〇〇メートル以上、南北約一五〇メートルの方形地割の存在が指摘できる。字名の「長者原」からして、官衙あるいは居館と考えられている。
③行橋市泉中央一丁目崎野遺跡15
主として、七世紀末~一〇世紀前半までの掘立柱建物などを検出している。緑釉陶器も出土し、郷程度を管理する在地有力層の屋敷の可能性が指摘されている。
青木和夫16は、『出雲国風土記』巻末記の「国庁意宇郡家」を「国庁たる意宇郡家」と解釈し、『出雲国風土記』が進上された天平六年(七三四)という時点では、国庁が意宇郡家と同居していた、さらに言えば、国庁が建設されるまでは、国司は意宇郡家にいて、出雲国を押さえていたのではないかとしている。また、平川南17は、下野国庁跡で出土した「都可郷」云々と記す返抄(へんしょう)木簡が、その機能から、最終的に郡家で廃棄されることになるので、下野国庁と都賀郡家とは、極めて近接していたのではないかとしている。このような考え方が一般化できるとすれば、国府と国府所在郡の郡家は、近接していたことになるので、①が有力である。また、仲津郡の郡司層が建立した寺院を上坂廃寺とすると、②や③は、やや距離が離れる。さらに、古墳の分布から見ても、六世紀代の主要古墳である彦徳甲塚古墳や、甲塚古墳は、比較的、国府に近い位置に存在する。以上の点から、仲津郡家は、まだ遺構を伴っていないものの、①付近が有力と考えられる。
ところで、近年の郡家の研究18によれば、郡家は、郡内の各地に別院を置いていたことが知られるので、②や③は、郡家の別院的な施設の可能性がある。なお、「古代の官道」の項で述べるように、②が、日野が想定する奈良時代の駅路(図7A-B)に近接することは注目される。
次に、京都郡家については、主に次の二つの比定地がある。
①苅田町岡崎小字「上地正院」、「下地正院」日野19の説で、小波瀬川右岸の低い台地上に当たる。条里地割の末端付近で、小波瀬川の水運を利用して、草野(かやのの)津に連絡していたとする。日野は、『本朝世紀』長保元年(九九九)三月七日条に見える平井寺について、苅田町上方島の小字「平泉寺」に比定し、その説話中に、寺院の北西に居住する法師の私宅に米が降ってくる話があることに注目する。すなわち、「上地正院」、「下地正院」は、「平泉寺」に近接して、その西北にあるので、これらを郡家の正倉関係の地名と見るのである。
②行橋市須磨園
戸祭20の説で、京都郡家は、国府に併設されていたと見て、須磨園の小字「大陵寺」(図3リ)が「大領」を連想させるとしている。
①は、京都郡の郡司層が建立したと考えられる椿市廃寺から、やや離れる点が気になる。また、北西の方位に米が降ってくるというのは、全国的に分布する、いわゆる戌亥隅信仰21の説話の一つで、これをそのまま実方位と結び付けてよいかは問題があろう。②については、筆者によるこの付近の小字地名の調査において、図3に見るように、郡家関係の有力地名と考えられる「コウゲ」を検出した。さらに、「長ヶ坪」や「蔵淵」などの小字地名も存在する。したがって、戸祭が京都郡の国府関係の地名とした「幸ノ山」、「幸寄」などのコウのつく地名も、むしろ郡家にちなむものと見なせば、須磨園付近に、京都郡家の本体が存在したと推測される。ただし、郡家の建物が広範囲に及んでいたとすれば、①もその一部であった可能性はあろう。