国津と国府津・郡津

553 ~ 555 / 761ページ

** 文中の※印をクリックすると参考文献のページに遷移します

 千田稔22は、古代史料には制度的なものとしての国津とか国府津とかいう名称はないことをことわった上で、国府の外港また国府自体が港としての機能をもつものを国府津、貢納物などの輸送に国ごとに指定されたとみられる港を国津と呼ぶことを提唱している。そして、国司の海路赴任などには国府津が使用されたらしいこと、国津は国内の物資の集積に便利な地点にあって、必ずしも国府に近接しているとは限らないことを指摘している。また、高重進23は、郡家にもその外港の存在が考慮されるとして、これを郡津と呼ぶことを提唱した。
 ところで、『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)』所収の延暦一五年(七九六)一一月二一日付官符によれば、天平一八年(七四六)、草野津などから漕ぎ出した官人百姓商旅の徒が、豊前門司の勘過(かんか)(検べて通すこと)を経ず難波に入船することを禁止したものの、その後も禁を破るものが多く、大宰府の訴えにより延暦一五年に、太政官では公私の船が大宰府の過所を有するか否か、豊前門司の勘過を経ているか否かについて、摂津国司がチェックするよう求めている。
 草野津の場所については、行橋市草野をその遺称地名とするのが一般的である24。高橋誠一25は、行橋市行事の小字に「舟入」があることに注目しているが、草野よりかなり海側になり、当時は水面下であったと推測される。
 なお、『和名抄』に仲津郡蒭野(くさの)郷が見え、草野津と同所と考えられる。中世、草野は京都郡に所属したので、いつの時期かに郡界の変更があったのであろう。日野26は、旧京都・仲津郡界を今川の旧河道と考えており(図19)、それによると、草野は、かつて仲津郡の範囲であったことになる。
 草野津の性格について、千田27は、国津あるいは国府津に、日野28は、国津と解釈しているが、国府津は、より国府に近い今井と考えられるので、国津とみなすのが適当であろう。ただし、本来は、草野津は、京都郡の郡津であった可能性がある。『日本書紀』に見える景行天皇の征西説話は、ある程度、大化前代の交通路を反映していると考えられるが、天皇は、周芳(すわのくに)の娑麼(さば)(防府市佐波)から豊前国長峡県に至って、行宮を建てたので、その地を京(みやこ)と袮するようになったとするものである。長峡県は、京都郡家想定地付近の行橋市長尾に比定される29。佐波から長尾までは、当然、瀬戸内海を船で渡って、草野津付近に上陸し、小波瀬川をさかのぼったのであろう。また、行橋市延永の延永水取遺跡30では、瓦や製塩土器、輸入陶磁器などを出土しており、幅約四・二メートルの八世紀代の溝は、草野津から椿市廃寺へ至る運河と解釈されているので、後には、このような水上交通路も開削されたのであろう。したがって、草野津は、大化前代からの良港で、ここを掌握することによって、京都郡の豪族は、発展してきたと推察される。ところが、国府が仲津郡に置かれると、草野津は、国津に指定され、国府所在郡である仲津郡の所属となったのではないだろうか。
 なお、戸祭31は、宇佐和気氏が、国府の東側を流れる祓川の河口近くの今井津に着いていることから、ここを国府の外港としているので、これを国府津とみなすことができよう。また、先述したように、仲津郡家も、国府の付近にあったと考えられるので、今井津が仲津郡の郡津を兼ねていた可能性がある。
 ところで、『万葉集』によれば、大宰府から帰任する官人の送別会がしばしば筑前国蘆城(あしき)駅家で行われているが、同駅は筑紫野市阿志岐に比定されるので、豊前路の駅であったことになる。したがって、官人の赴任や帰任に、豊前路が利用されることが多かったと推測され、このことは、「古代の官道」の項で述べる足利健亮32による、豊前路を大宰府路のバイパスと見なす解釈とも一致する。『万葉集』巻四に「大宰帥大伴卿、大納言に任(ま)けられて京に臨入(いら)むとする時に、府の官人等、卿を筑前国蘆城の駅家に餞(うまのはなむけ)する歌四首」が載せられている。すなわち、これは旅人が大納言になった天平二年(七三〇)のことであるが、巻六に「大宰大伴卿、大納言に兼任して、京に向ひて上道(かみたち)す。此の日馬を水城に駐(とど)めて、府家を顧み望む」とあって、旅人は大宰府路から山陽道に向かったことがわかるが、巻一七によれば「天平二年庚午冬一一月、大宰帥大伴卿の、大納言に任けらえて京に上る時に、傔従(けんじゅう)(従者)等、別に海路を取りて京に入る」とある。木下33は、おそらく、彼らは豊前路をとって草野津から乗船したのであろうとしており、妥当な見解であると考えられる。あるいは、今井津が利用された可能性もあろう。なお、行橋市の蓑島は、平安時代の歌枕として知られるが、『角川日本地名大辞典34』が指摘するように、草野津の入り口を占める要地にあったため、都と大宰府を行きかう官人たちの目を引いたことによって、歌枕となっていったと推測される。