駅路と伝路

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 中央集権国家体制をとる律令国家は、中央と地方を緊密に連絡する必要があったので、通信と交通の制度を定め、官道を整備した。官道には、最近の研究では、①駅路、②伝馬路、③伝路の三種類があったとされている35。駅路は、駅制に対応するもので、中央と地方の間の情報伝達のために設けられた緊急通信制度である。駅路に沿って、おおよそ三〇里(約一六キロメートル)ごとに駅家を配置するが、駅馬の数は、大路二〇匹、中路一〇匹、小路五匹ずつと定められていた。
 
図8 古代の官道概念図
図8 古代の官道概念図

 駅には、労働力の供給源として駅戸が、財源になる生産地として駅田が配属されており、駅戸の中から駅長を選出した。情報伝達の方法としては、特定の使者が目的地まで赴く専使方式と、文書などを駅ごとないし国ごとにリレーで送っていく逓送使方式とがあった。駅制を利用するには、駅鈴が必要であった。駅路は、平野部では、可能なかぎり直線的に設定され、幅は、約九~一二メートルあった。
 伝馬路は、伝馬制に対応するもので、史料用語ではない。伝馬制は、中央から地方へ派遣される使者を送迎する制度で、律令法では、郡ごとに五匹ずつ設置された。伝馬利用の使者は、郡家で、休息、宿泊、食料の供給を受ける。伝馬を利用するには、伝符が必要であった。伝馬を利用できるのは、当初は、各種任務を帯びた中央派遣の使者に限られていたが、平安時代には、ほぼ新任の司赴任専用の交通制度に変質していく。伝馬路は、幅約六メートルで、直線的な場合もあったと考えられる。
 伝路は、伝制に対応するもので、これも史料用語ではない。伝制は、伝馬をも含んだ、郡家がもつ多様な交通機能を総称したもので、たとえば、供給(休息・宿泊や食料の提供など)、文書逓送(リレー方式による文書転送)、運搬具(馬、船、車など)の提供などが挙げられる。これらは、律令国家が成立する以前から、地方豪族たちが有していたもので、その時々の状況に応じて、倭王権の利用に提供していた。伝路は、幅約六メートルで、直線的な場合もあったと考えられる。
 ところで、平安時代の初め頃に、交通制度と道路の大改革があった。すなわち、いったん伝馬を廃止し、その後、主として、駅路沿いの郡にのみ伝馬が再設置された。したがって、駅路と伝馬路が一本化され、場合によっては、維持しやすいそれまでの伝馬路のルートが新しい駅路のルートになることもあったと考えられる。ルートが変わらなくても、駅路の輻は、伝馬路なみの六メートル程度に縮小された。