『延喜式』諸国駅伝馬条には、豊前国の駅馬について「社埼(もにさい)。到津(いたむつ)各十五匹。田河(たがわ)。多米(ため)。刈田(かりた)。築城(ついき)。下毛(しもつみけ)。宇佐。安覆各五匹」と記している。この内、社埼と到津は、平安京から大宰府へ向かう大宰府路上の駅、田河と多米は、大宰府から豊前国府へ向かう豊前路上の駅、刈田は、大宰府路・豊前路連絡路上の駅、築城、下毛、宇佐、安覆は、豊前・豊後連絡路上の駅、と考えられる。ここでは、京都郡と仲津郡の駅路の復原を行うが、前記の豊前国の諸駅のうち、京都郡に所属したと推測されるのは、多米と刈田の二駅で、『延喜式』の段階では、仲津郡には駅はなかったことになる。
なお、足利健亮36は、大路に当たる山陽道の駅馬が原則として、二〇匹であるのに対し、西海道に入ってからの大宰府路の駅馬が一五匹であることについて、駅馬五匹を置く「田河道」が五匹分の交通量を分担したからであろうとする。これは、十分考えられる解釈であるが、「田河道」の名称は不適当で、正確には、「大宰府路・豊前路連絡路と豊前路」ということになろう37。