田河駅から多米駅へ

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 多米駅の前駅である田河駅の位置について、吉田東伍38『大日本地名辞書』は、田川市夏吉に、大槻如電39『駅路通』は、同市伊田に比定している。また、木下良は、夏吉の小字「立石」と伊田の小字「真米(まごめ)」に注目して、この付近に田河駅を想定していた40が、その後、伊田で発掘された下伊田遺跡が田河郡家の可能性が高くなったので、郡名を冠する田河駅も同所か近くにあったのではないかとしている41。駅路はここから東に仲哀峠を越えて、京都郡の領域に入ることになるが、木下42は、具体的には、駅路は、「石鍋越」と呼ばれる経路をとったとする。すなわち、後述するように、京都郡側の駅路は、きわめて明瞭な直線の痕跡(こんせき)を残しているが、その路線設定には、郡界の山地で最も高い障子ヶ岳(四二七・三メートル)を目標にしたとみられ、そのすぐ東麓に達している。ここからは、七曲峠(三〇三・七メートル)と石鍋越(三一〇・一メートル)の二つのルートが考えられるが、木下は、後述するように、奈良時代に駅があったと考えられる鏡山に達する順路となること、また四王寺に何らかの施設があったと考えるとそれとの連絡の上でも便利であることなどから、石鍋越を適当としている。すなわち、当地の四王寺については徴すべき文献がないが、大宰府大野城の四王寺は、新羅との間に緊張関係が高まった宝亀五年(七七四)に、新羅の調伏を祈願して四天王像を安置したもので、貞観九年(八六七)にも新羅の侵攻を防ぐために伯耆・出雲・長門の諸国に四王寺が建立されたので、この地の四王寺もこれに類する可能性があるとするものである。現在、香春町鏡に、四王寺と称する寺院が存在する(図9A)が、本来、この寺は、障子ヶ岳の一支峰である四王寺ヶ峰に位置したという。また、中野幡能43は、「障子ヶ岳」の名称自体が「四王寺」が転訛したものではないかとしている。
 
図9 田河-多米駅間の想定駅路
図9 田河-多米駅間の想定駅路(国土地理院発行1/25000地形図「金田」「行橋」より)

 以上のように、石鍋越を駅路とすると、古代寺院である菩提廃寺(B)が駅路に沿わないことになるが、同寺院は、九世紀頃の建立で、伽藍配置もやや特殊であり、山岳寺院的な性格がうかがえる44ので、かえって駅路の喧騒(けんそう)から離れていた方が適当と考えられる。
 さて、石鍋越を越えた駅路は、勝山町松田の若宮八幡宮(C)付近に降りてくることになるが、この付近から行橋市矢留まで、京都郡条里の七条と八条の里界線ともなる一直線のルートが想定されている45。筆者は、この里界線に沿って、D点からE点まで、水田中に、約幅六~八メートルの地条として続く道路痕跡を確認した。また、この地条は、その北側の水田より一段低くなっており、その比高差は、大きい所で、三メートル程度に達する。E点以東は、新町の街路の南約六〇メートルを街路に平行して通ることになるが、一部地割としては認められるものの、現在道は通じていない。しかし、この街路からT字路を作って南下する現在道が想定駅路と交差する地点に当たるF点の東側に猿田彦大神が、西側に庚申塔が祀られている。すなわち、ここが本来、〓を作っていたことの名残ではないだろうか。
 多米駅について、具体的な遺称地名は存在しないが、当然、その位置は、刈田駅へ向かう駅路との分岐点にあったのであろう。後述するように、日野尚志46は、刈田駅への駅路も里界線に一致すると見るので、この見解に従えば、二本の駅路の分岐点となる勝山町大久保のG点付近が有力であろう。あるいは、刈田駅への駅路が条里地割とは無関係に、より最短距離となるよう直進していたとすれば、ややG点より西側で、交点を形成していたとも考えられる。