駅路は、多米駅想定地からさらに東に直進するが、図10のH点に猿田彦の石碑が存在することを、木下が指摘している。この場合も勝山町の場合と同様に、現在の主要な東西道に沿わず、二町南に位置することが注目されよう。なお、現在、この石碑は、よそへ移転しているようである。
この東で想定駅路は、南から張り出す丘陵の先端部を横切ることになるが、三ヵ所で、地元で「ウド」と呼んでいる幅一〇メートル程度の明瞭な切り通しを作っている(I、J、K)。そして、I点の切り通しの西側に当たる部分(L)を、平成九年(一九九七)に行橋市教育委員会が発掘調査を行い(大谷車堀遺跡)、道路状遺構を検出している(写真4)。調査担当者の小川秀樹の教示によると、幅一〇・四メートルの高まりが約一五メートルにわたって検出されており、道路の両側は排水のために溝状に低く削り落とされていた。路面上部が水田の開墾で削平されているため、当時の道幅は、七~八メートルと推定されている。両側の溝状の落ち込みからは、七世紀後半の土師器や須恵器が出土している。また、三つの切り通しの東側の天生田矢萩遺跡(M)でも、道路状遺構が検出されている。小川の教示によれば、ここでは、北側で段落ちが、南側で幅一・五メートル前後の蛇行する溝が検出され、この溝と段落ちにはさまれる部分の幅は、おおよそ七~八メートルを測り、それが長さ約二七メートルにわたって確認されている。出土遺物としては、石帯(巡方)が一点ある。さらに、その東側のN点を、平成九年(一九九七)に福岡県教育委員会が発掘調査を行い(天生田大池遺跡)、道路状遺構を検出している48。南北両側に段落ちがあり、その間の道路幅は、北側のテラス状の部分も含めて、七・九メートル前後となる。
以上、三ヵ所の発掘地点は、木下の想定駅路上に一直線に連なり、道路幅も、約七~八メートルと共通性がある。なお、想定駅路のすぐ南に位置する清地神社(O)(旧称天疫神社)について、渡邉重春49は、その性格を塞神とし、今川を国府の西境として、祀られたのではないかとしている。また、吉村靖徳50は、想定駅路と今川が接する部分に、近年まで、貴船社という社があり、渡しの存在を思わせるとしている。
さて、近世における京都・仲津両郡の郡界を示す標柱が、近年まで、若干、位置を北へ移してp点に立っていたが、日野51によれば、古代の郡界は、今川であったとする。仲津郡の領域に入ると、まずQ点に「国分畔(なわて)」の小字地名が存在することが注目される。ここから、東の想定駅路は、松田池の中を通ることになるが、図11のR点に、ここから西に松田池の中に水没する窪地があり、これが道路痕跡であると判断される。特に興味深いのは、この窪地の部分の小字地名が「足形」で、そこだけが帯状に飛び地となっていることである(図12)。筆者52は、「大人足」や「大足」などの巨人伝説にちなむ地名が、古代の駅家や駅路に沿って存在する場合があることを指摘したことがあり、木下53も、安芸国の木綿(ゆうつくり)駅想定地付近と筑前国の席内(むしろうち)駅想定地付近にそれぞれ「大人」の小字地名があり、肥前国の想定駅路に沿って、「うーわしがた(大足形)」、「ウーシト(大人さんの足形)」の通称地名が存在することを指摘している。特に、肥前の二例は、大規模な切り通し遺構のある所で、地名も当地の「足形」と似ている。また、長崎県大村市中里町にも、想定駅路に沿って、小字「足形」がある54。したがって、当地の「足形」も、駅路の痕跡である窪地を、土地の人が巨人の足跡と見て、付けた地名ではないだろうか。
さらに、想定駅路を東へ延長した甲塚古墳(S)の南側にも、古墳に接して切り通しが存在し、これを駅路の痕跡とする解釈がある55。しかし、空中写真に見える道路痕跡は、R点付近から緩やかにカーブを描いて東南東に方向を変えるので、甲塚方墳の南約四〇メートルの地点を通過することになる。したがって、この切り通しが古代駅路のものかどうかについては、なお検討する必要があろう。一般的に古代駅路が方向を変える場合は、折れ線グラフのような形をとることが多く、このように弧を描くケースは大変珍しいが、類例としては、下野国府付近にあり56、どちらも国府の近くであることが興味深い。
さて、方向を東南東に転じた駅路は、T点から台地上に上がり、この部分に切り通しを形成している。U点には、「切通」の小字地名が存在するが、想定駅路から北に一五メートルほど離れるので、この地名は、あるいは南北道に因(ちな)むものかもしれない。想定駅路は、V点で再び切り通しを作って台地を直線的に降りて、発掘された豊前国庁(W)の南約三〇〇メートルの通称「伽藍橋」(X)に達する。長養池からここまでの駅路は、部分的に、豊津町の国作と国分および国分と惣社の大字界となっている。ここから東南は、仲津郡の条里地帯を通ることになるが、駅路と条里は、同方位で、日野57によれば、駅路は、条里の里界線を通ることになるので、ここでも駅路が条里プランの基準線になっていたことがうかがえる。
想定駅路は、祓川を横切るが、その右岸で、平成一一年(一九九九)に豊津町教育委員会が、古代道路状遺構を検出した58(Y)。河川敷から河岸段丘に連続する面において、幅約六・八メートルの硬化面と片側側溝を検出したが、側溝は、本来両側に存在したと推測されている。さらに、硬化面の下には、幅約一一・四メートル以上で、厚さ七五~九五センチメートル程度の砂礫層を造成していた。硬化土層や砂礫層からは、八世紀中頃の土師器や須恵器の小片が出土している。
これに連なるz-a道は、古代駅路を踏襲した道と考えられ、かつては、C点まで明瞭な痕跡を残していたが、圃場整備によって、自衛隊築城基地の内部の切り通し(b-c)を除いて消滅した。そして、d点で、築城郡の範囲に入るが、駅路は、そのまま直進し、築城郡においても里の界線となっている59。築城駅の位置について木下60は、椎田町越路の日吉神社付近で、駅路がわずかに方位を変えること、付近に「馬場」や「前田」の小字地名が存在することなどから、この地に想定している。
ところで、以上のような想定駅路のルートに近接した行橋市矢留(やどみ)に小字「火熊」(e)がある。ヒノクマ地名は、古代の烽(のろし)にちなむ場合があると考えられる地名で、たとえば、佐賀県神埼町の日の隈山は、『肥前国風土記』神埼郡条の「烽壱所」に比定され、同県鳥栖市の朝日山は、別名「日の隈山」とも呼ばれるが、やはり『肥前国風土記』養父郡条の「烽壱所」に比定(ひてい)される。したがって、行橋市の「火熊」地名そのものは、谷部にあるが、その西隣りの矢留山が、火熊山とも呼ばれて、烽が設置されていたと考えられる。福岡県新吉富村にも駅路に沿って、日熊山があり、矢留山から、直線で約二〇キロメートルの距離となる。これは、「軍防令」に記す烽間距離四〇里(約二一キロメートル)とほぼ一致するので、矢留山の次の烽は、日熊山であった可能性が高い。なお、仲津郡の駅路を西北西に延ばすと、ほぼ矢留山に到達するので、この山が駅路測設の目標物でもあったと考えられる。