次に、豊前路と大宰府路の連絡路について述べる。多米駅から、苅田町馬場付近に比定される刈田駅までのルートについては、特に文章としての説明はないものの、戸祭由美夫61が、地形図上に想定線を入れたものがあり、これが引用されることが多い。それによると、戸祭は、多米駅を勝山町の大久保付近(図13G)に比定し、そこから、約一キロメートルにわたって、北に延びる直線道(G-f)を想定しているが、この部分は、先述したように、日野62が復原した条里の里界線に一致する。このうち、g-h間は、現在、勝山町の上田と箕田との大字界となっている。f点から京都郡家が想定される須磨園付近までのルートについて戸祭63は、県道長尾・稗田・平島線が古代駅路を踏襲した道と見ている。すなわち、f点でやや方向を変え、綾塚古墳や黒田神社の脇を通って、i点までほぼ直線的に進む。i-j点でわずかに屈曲した後、再びk点まで直線的に進み、k点とl点で折れて、戸祭が想定する京都郡国府の西辺(m-n)に達するというものである。なお、戸祭は、k点で折れずに直進して、国府の東辺に達するルートも地図上に破線で記入しているので、そういった別路も考えられるということであろう。このうち、j-o間は、行橋市と勝山町の境界線となっている。そのすぐ北側では、この想定駅路に接して、「大道ヨリ南」(p)、「大道ヨリ西」(q)の小字地名があるので、この道路が「大道」と呼ばれていたことがわかる。さらに、「大道」の小字地名は、完全に想定駅路に接していないもののr点にもある。筆者が京都郡家関係の地名と見る小字「コウゲ」(s)は、この想定駅路にほぼ接する。また、t点は、白鳳寺院の椿市廃寺である。なお、木下64は、勝山町大字中黒田の小字「車地」(u)について、駅路にちなむ地名ではないかとしているが、戸祭の想定駅路からは、三〇〇メートルほど東に外れる。この点について、後に地名が若干移動したのか、戸祭の想定駅路をやや東寄りに考えるべきなのか後考に待ちたい。
さて、須磨園に達した戸祭の想定駅路は、その国府想定地の北西隅(図14n)で、九〇度東に屈曲して、国府の北辺を通り、再びv点で、北に九〇度折れて進むが、このルートは明らかに迂回路(うかいろ)となり、また国府の方形地割自体が存在したかどうか疑わしいので、n点からは、山麓沿いに山口を経て、京都峠(w)まで達していたと考えた方が自然であろう。x点の谷遺跡I-B地区では、七世紀後半代の竪穴住居跡一棟と八世紀代の掘立柱建物跡二棟、それに八世紀代の緑釉陶器が出土している。また、y点の同遺跡I-C地区では、八世紀後半代の掘立柱建物跡や、八世紀代の緑釉陶器、唐三彩の陶枕が出土しており注目される65。
次に谷部を詰めた駅路は、京都峠を越えるが、現在は、廃道化して、通行不可能となっている。京都峠を越えると、殿川の谷を東に降りることになるが、Z点の宝蔵院相圓寺(内尾薬師)には、平安時代後期と考えられる丈六仏が祀られている66。
刈田駅の想定地について、戸祭67は、苅田町の大字馬場に比定している。その根拠は、次駅である到津駅からの距離が約一五キロメートルと標準駅間距離に近いこと、行橋平野へ至るルートとの分岐点に当たること、それに馬場という地名の存在である。
戸祭は、小字地名の面から確証を得ることはできなかったと述べており、筆者の小字地名の調査からもA点に「神田」、B点に「前田」の地名を見出した程度であった。ただし、馬場は、京都峠から東に降りてきた駅路が平野に出て、北に向きを変える地点で、駅を置くにはふさわしい要地であると言えよう。なお、日野68は、宇原神社付近に六町程度の小規模な条里地割が存在することを指摘しているが、これらが駅田に由来するものか、宇佐弥勒寺領の宇原荘にちなむものかは定かではない。
馬場付近で、方位を北寄りに変えた駅路は、山麓に沿って進んだと考えられる。D点の雨窪遺跡群69では、八世紀代の土師器・須恵器や緑釉陶器、須恵質の陶製馬、萬年通宝などが出土している。遺構は、はっきりしないものの、ほぼ駅路に沿っていると考えられるので注目される。
駅路上の京都郡と企救郡の境界は、ほぼ現在の苅田町と北九州市の境界に踏襲されていると考えられるが、そこから先の駅路の復原については、日野70の考察がある。日野は、到津駅の位置について、北九州市小倉北区金鶏町の屏賀坂遺跡付近に想定している。