『延喜式』以前の駅路

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 ところで、全国的に、平安時代の初め頃に、駅路のルートや駅家の位置に、大きな変化があったと考えられているが、京都・仲津郡においても、同様の変更があったとする解釈がある。
 
図15 『延喜式』以前の駅家と駅路想定図
図15 『延喜式』以前の駅家と駅路想定図

 まず日野71は、国府と刈田駅を直結する駅路があったとする。すなわち、図16のf点で、多米駅と豊前国府を結ぶ駅路から分かれて、g点で屈曲し、h点に達する。そして釜割池を横切り、低い丘陵を越えるとするが、日野の想定駅路を詳しく検討すると、直線的な痕跡が見出される。すなわち、釜割池の西北の丘陵には、空中写真に切通状の痕跡(i-j)が明瞭で、この部分は、かつて泉村と今川村との村界にもなっていた。ただし、現在は、宅地造成のため消滅している。kには、現在道が存在するが、そのすぐ西側には、東西一〇〇メートル以上、南北約一五〇メートルの方形地割(l)が明瞭である。そして、この地割の西北隅で、直角に屈曲する溝と、これに並行して、八世紀代の遺物を出土する溝を検出している72。小字地名の「長者原」から、仲津郡家の別院的な施設が想定される。さらに、m、n、o-pにも断片的な現在道が存在し、その延長は、条里の里界線にもなって、『類聚三代格』所収の延暦一五年(七九六)二月二一日官符に見える草野津に比定される行橋市草野(r)を経て、JR日豊本線の西の山麓(q)に取り付き、これに沿って北上して、刈田駅に達するというものである。なお、日野は直接触れていないが、q点までの直線道をそのまま北へ延ばすと、高城山の山頂に達するので、これを目標物として、道路が設定された可能性が高い。また反対に南へそのまま延長すると、豊前国分寺(M)付近へ達することも興味深い。ところで日野は、国府が、仲津郡から京都郡に移転したため、駅路も京都峠を通るルートに変更になったとする。木下73も、具体的な旧駅路の復原は行わないものの、日野と同様の見解を示し、須磨園から刈田駅へ向かう駅路は、国府の移転にともなって、新しく開かれたものと解釈した。
 
図16 豊前国府-刈田駅間の想定駅路
図16 豊前国府-刈田駅間の想定駅路
(国土地理院発行二五〇〇〇分の一地形図「行橋」および国土地理院一九六二年撮影KU-62-9 C3-13より)

 さらに、日野74は、『万葉集』巻九に見える「豊国の香春は吾家(わぎえ)、紐子にいつがり居れば 香春は吾家」(一七六七番歌)の内容から、奈良時代、香春に駅があったとしているが、木下75も同意見で、さらにその根拠について、詳しく述べている。すなわち、『万葉集』巻三に、豊前国鏡山に葬られた大宰率(師)河内王を悼む歌がある。河内王の死去は、部内巡行の際と考えられるが、何も施設の無い所で亡くなったとは思われないこと。また、日野が取り上げた一七六七番歌の紐子は、駅家にいた遊女ではなかったかということである。駅家に遊女がいた可能性については、やはり木下76が、越中射水郡駅館や下総国井上駅の例を挙げ指摘している。さらに木下77は、鏡山が仲哀峠の西麓に位置して、駅を置くのに適地であることや、金辺(きべ)峠を越えて企救郡家へ向かう伝路との分岐点に当たることなども挙げているが、駅間距離の問題についても言及している。すなわち、『延喜式』の駅路の場合、福岡県庄内町綱分に比定される綱別駅から田河駅までの駅間距離は、約八キロメートル、田河・多米駅間は、約一〇キロメートルと標準駅間距離の一六キロメートルに比べて短い。そこで、奈良時代には、田河に駅がなく、香春町の鏡山にあったとすると、綱別・鏡山間は、約一四キロメートルになる。また、木下78は、一般的に、本来は国府には付属駅があったのが、平安時代に入ると廃止される場合があることを述べており、豊前の場合も本来、国府の付属駅が存在したと考える。先述したように、木下は、京都峠を通る駅路は、国府の移転にともなって、新しく開かれたと見なすから、その時に駅路の分岐点に多米駅が置かれたことになる。したがって、当初は、鏡山に存在した駅の次駅は、国府付近ということになり、その間の距離は、約一三キロメートルとなる。
 以上述べてきたような日野と木下による、奈良時代の駅家と駅路およびその後の変遷は、色々な事象を合理的に説明することができ、説得力がある。
 ただし、日野や木下は、仲津郡から京都郡への国府の移転にともなって、京都峠を通る駅路が開かれたとしているが、「国府と郡家」の項で述べたように、国府の発掘調査79の結果によれば、一二世紀前葉くらいまでは、仲津郡に国府が存在する点が問題である。すなわち、発掘調査の結果を尊重すれば、国府の移転が新駅路の開削の契機には成りえないことになる。筆者は、京都峠を通る駅路は、奈良時代から存在していたのではないかと考える。その根拠は、先述したように、ほぼこのルートに沿って、「車地」(車路)の地名が存在することである。「車路」について木下80は、その名称の由来を軍用輜重車の使用によるとした上で、天智朝の対外危機に際して築城された山城群と、地方の軍事的・政治的中心地とを連絡し、さらには、大津京に至る軍用道路を主体にしたものであるとしている。この見解にしたがえば、「車路」は、割合と古い駅路や交通路に沿うことになるが、現在まで確認されている古代官道に沿った「車路」は、いずれも奈良時代以前の官道に由来するようである。たとえば、肥後国の鞠智城からは、西・東・南の三方へ放射する直線的な道路があり、いずれも「車路」の地名をともなっている81。鞠智城は、七世紀後半代には築城されたと考えられるので、これらの三本の道路もほぼ同時期に開設された可能性が高い。このうち、西と南へ向かうものについて、鶴嶋82と木下83は、初期の駅路であったと解釈している。したがって、京都峠を通る駅路は、奈良時代以前の早い段階にすでに、駅路として、開かれていたのではないだろうか。あえて、峠越えのルートをとったのは、行橋平野が、まだ低湿で通りにくかったことによるのであろう。また、先述したように足利84は、大宰府路・豊前路連絡路と豊前路が、大宰府路のバイパス的役割を果たしていたと推測しているが、もし、刈田駅から豊前国府を経て大宰府へ向かうならば、かなりの迂回路となるので、バイパスの意味をあまりなさないことになる。そもそもこのバイパスが豊前国府を経由する必要はない。西海道の交通体系は、大宰府から放射状に出ればよいからである。
 また、駅間距離の問題であるが、もし、京都峠越えの駅路が当初から存在していたとすると、豊前路との分岐点付近に多米駅家が存在したと考えた方が都合がよい。その場合、綱別と田河、田河と多米各駅の間隔が短くなってしまうが、これは、それぞれ関の山と石鍋越という急峻な峠を越えるからと考えてもよいのではないだろうか。そして、奈良時代の駅の位置を木下のように考えるならば、国府の付属駅と築城駅との距離が大変近くなってしまうが、この点について、木下は、特に触れていない。
 以上のように、『延喜式』以前に駅路や駅家の変更があったとする日野や木下の解釈には、まだ乗り越えなければならない問題点があろう。