次に、京都・仲津郡およびその周辺の伝路について述べたい。
『延喜式』兵部省諸国駅伝馬条によれば、豊前国には、伝馬に関する記述が一切無い。『延喜式』民部下では、「凡そ山陽・南海・西海道等の府国、新任官人任に赴くは、皆海路を取れ」、「但し、西海道の国司府(大宰府)に到れば、即ち伝馬に乗る。其大弐已上は乃陸路を取れ」とある。大同元年(八〇六)以前には、西海道の新任国司は、海路をとって赴任することになっていたが、大宰府到着後は伝馬を利用しなければならない。大宰府から豊前国府までの間は、伝馬がなくてどうしていたのか不思議であるが、直接大宰府によらずに赴任が可能であったのか、あるいは、博多から海路で赴任したのだろうか。
さて、この地域の伝路については、木下85の考察があるので、これによってみていきたい。
まず、京都・田河郡家間の伝路であるが、京都郡家の位置について、「国府と郡家」の項で述べたように、日野86は、苅田町岡崎に、戸祭87は、行橋市須磨園付近に想定しているが、筆者は、「コウゲ」の地名などから、後者が有力であると考える。一方、田河郡家は、田川市の下伊田遺跡88が有力である。したがって、その間の伝路は、刈田・多米・田河各駅を連ねる駅路と同じ道であったか、別路をとったとすれば、行橋市入覚から、勝山町岩熊を通って、味見峠を越え、採銅所から南下して、鏡山で駅路に合したとも考えられる。前者の石鍋越がかなり急峻なのに対し、味見峠の方がなだらかなので、後者の方が伝路としてふさわしいかもしれない。
次に、仲津・田河郡家間の伝路についてであるが、仲津郡家は、「国府と郡家」の項で述べたように、日野89が指摘する行橋市草場の小字「上氷」(図17E)がその遺称である可能性があり、いずれにせよ国府付近に存在した可能性が高い。木下90は、犀川町と香春町・赤村の境となる大坂峠のルートを伝路に比定している。「オオサカ」、「ミサカ」地名について、鈴木景二91は、一般的に、令制前のある国からみてほかの国へと越える主要な峠道を指す、地域主体の呼称であったとしているので、伝路にふさわしいといえよう。大坂の地名は、現在、犀川町の大字地名(F)として、また香春町の柿下(G)と赤村の内田(H)にそれぞれ残る。また、犀川町と香春町との境にそびえる飯岳山(I)は、別名を大坂山と称するが、延久四年(一〇七二)の『宇佐大鏡』に見える勾金荘の四至に「東限大坂山」とあるので、少なくとも一一世紀まではさかのぼる地名である。現在の主要道は、県道田川・犀川線が、大坂山南方の鞍部の標高二六五・六メートルの峠(J)で越えているが、香春町と赤村の大坂地名の位置からみて、本来の大坂越は、町村界の谷に当たるK-Lだったと考えられる。現在も小道が通じており、途中やや通りにくいところもあるが、一応、通行可能である。仲津郡家から大坂峠までのルートは、明瞭な復原はできないが、豊前国分寺(M)付近から、白鳳期に遡(さかのぼ)る可能性がある上坂廃寺(N)付近を通って、犀川町の続命院(O)に達する。続命院は、『続日本後紀』承和二年(八三五)一二月癸酉条によれば、大宰大弐在職中の小野岑守が、公私の所要で、大宰府に逗留(とうりゅう)する人々のために設置したものである。倉住靖彦92は、その設置時期を天長元年(八二四)前後とし、場所については、筑紫野市俗明院周辺に比定している。さらに、倉住は、来府する旅行者がきわめて劣悪な環境のもとにおかれていたこと、続命院に付与された墾田は、諸国に分散しており、犀川町の続命院地名は、それに由来するとしている。一方、西別府元日93は、『続日本後紀』に見える続命院を、大宰府域に想定し、筑紫野市に残る「俗明院」地名は、続命院に付与された墾田に由来するとする。また、犀川町の続命院地名については、倉住と同様に、続命院に付与された墾田に由来すると見る。
犀川町の続命院については、『豊前遠鏡』のように、国府付属の施設で、大宰府の続明院と同様の機能を有していたという説もあるが、倉住や西別府のように、墾田に由来すると解釈した方が自然であろう。ただし、犀川町の場合、伝路に沿っていたらしいことは、注目される。
次に今川を渡ると、古代寺院木山廃寺94(P)に達する。周辺には、姫神、大熊の前方後円墳をはじめとして、数カ所に古墳群が知られている。また、Q点の草場遺跡95では、古代の掘立柱建物が検出され、墨書土器も出土している。したがって、この付近に、国府周辺とは別に、仲津郡の一つの地域中心地が存在し、郡家の別院的な施設が置かれていた可能性が高い。さらに、R点は、福六(ふくろく)瓦窯跡で、ここから木山廃寺の瓦以外にも、国分寺や上坂廃寺と同系統の瓦が出土しているので、これらの瓦は、伝路を通って運ばれた可能性がある。大坂峠以西は、田川市伊田の古代寺院天台寺跡(上伊田廃寺)付近を経て、田河郡家に比定される下伊田遺跡付近で、駅路と合流していたと考えられる。
以上のような伝路を想定すると、御所ヶ谷神籠石(U)の北側を駅路が、南側を伝路が通ることになり、木下97は、御所ヶ岳が、駅路と伝路を前後に扼(やく)する位置を占めることになることに注目している。先述したように、古代山城と官道の関係は密接であるが、鞠智城や基肄城のように、古代山城から道路が放射状に出るタイプ以外にも、怡土城のように、城の北と南に、駅路と伝路が平行して通る場合もあるようで、御所ヶ谷神籠石の場合は、やや年代は異なるものの後者のタイプと共通する。なお、御所ヶ谷神籠石には、南門(V)や第二南門(W)も存在するので、これらは、伝路との連絡に関わるものかもしれない。