条里地割とは、一町(約一〇九メートル)四方に区切られた地割が連続するものをいう。その面積もまた一町であるが、内部をさらに一〇等分すると一段になり、その仕方によって、長地型と半折型に区別される。八世紀の中頃に条里呼称法が導入され、金田章裕98は、両者による土地管理システムを「条里プラン」と称している。条里呼称法は、面積一町の正方形の区画を坊(九世紀以後は坪)と称し、坊(坪)を東西南北に六つずつ集めた正方形を里、里が帯状に連なった部分を条と呼ぶのが一般的であった。国によって条里呼称法の様式は異なるが、豊前国の場合、条、里ともに数詞で呼ばれたとみられる。里内の坊(坪)には、一~三六の番号が付されていたが、その番号の振り方に千鳥式と並行式がある。
以上のような条里プランは、かつては、班田収授のために、その実施と同時に存在したシステムと考えられていたが、班田制が始まってから九〇年以上を経て初めて完成したものであり、班田制と条里プランは本来別の起源を有するものであった。すなわち、班田収授の最初の実施は白雉三年(六五二)であり、持統天皇六年(六九二)の班田からは六年ごとに実施されるようになった。当時の土地の記録・管理は小字地名的名称と面積およびその土地の四周の事象(四至)で事足りていたと想像される。ところが、養老七年(七二三)の三世一身法と、天平一五年(七四三)の墾田永年私財法によって、私有地である墾田の存在が認められると、それを口分田や乗田と区別しなければならず、そのための行政手続き上の作業量は激増することになる。このような新しい状況に対応して導入されたのが規則的・機械的に土地を表示する条里呼称法であり、天平一四年(七四二)に始まった班田図の整備とともに、各国ごとに実施された。
以上のような条里プランを、金田99は「律令の条里プラン」と呼んでいるが、九世紀頃には、青苗簿帳の制度が再規定されるなど、土地管理システムが細部にいたるまで整備され、律令の条里プランの成熟期を迎えた。
しかし、一〇世紀以降になって、班田収授が行われなくなると、土地制度自体は、変化の時期に入ったが、国衙所管の校班田図は、国図と称されて土地管理の固定的基準として用いられ続け、免除領田制の官物免除の手続きや、土地をめぐる複雑な権利関係の記録や維持のため、さらに荘園などの境域を画する基準として、条里プランが重要な役割を果たし続けた。この時期の条里プランを、金田は「国図の条里プラン」と称している。
さらに、一二世紀頃になると、一つの領域型(一円)荘園の範囲内のみで完結した土地表示システムとして、あるいは、条里呼称法の様式をとどめつつも、新たに編成されるか旧来のものを再編した別の形としての条里プランが出現する場合があり、金田は、これを「荘園の条里プラン」と呼んでいる。
一町方格の条里地割は、律令の条里プランの時期のみならず、国図の条里プラン、荘園の条里プランのいずれの時期にも形成が進んだ可能性があり、一町方格内部の一段を単位とするような規則的地割形態については、土地管理の強化に伴い、国図の条里プランや、荘園の条里プランの下でこそ形成が進んだ可能性が高い。