ここでは、旧京都郡と仲津郡の条里について取り上げるが、この地域の条里については、日野尚志100の復元があり、本稿も多くをこの論文によっている。
まず、京都郡の条里について、日野は、これを五つの条里区に区分している。
①諫山・稗田・宝山条里区
長峡川と井尻川に沿う沖積地に分布する条里である。方位は、北一度東で、正方位条里と見なしても差し支えないと考えられるが、東端と西端では、四度前後、偏位している地域も存在する。
行橋市津積に小字「一ノ坪」、「二ノ坪」、「三ノ坪」が北から南に並び、一町隔てて「五ノ坪」があり「五ノ坪」の東に「八ノ坪」が位置することから、西北隅を一ノ坪、東北隅を三六ノ坪とする千鳥式であることがわかる(図20)。また、行橋市西谷の小字に「八条」があり、その位置を条の八条とすれば、条里地割の北限である柵見川と今川の旧流路付近が一条にあたり、坪並と条との進行が一致していたと見られる。また、里は、おそらく西から東に進行し、少なくとも、一〇里からなっていたことは確実である。なお、木下101は、七条と八条の里界線が、多米駅から国府へ向かう駅路と一致することを指摘している。また、日野102は、南北の里界線も、多米駅から刈田駅へ向かう駅路と一致することを指摘している。したがって、駅路が条里プランの基準線になったのであろう。
②小波瀬・延永・白川・椿市条里区
小波瀬川の流域に分布する条里である。方位は、北二度東であるが、偏位している地域もあって、一部に菱形地割も見られる。日野103によれば、一一の坪付小字名があるが、すべてを満足させる坪並はない。そこで、日野は、当初、小波瀬川が郷の境界に当たり、これを境として、異なる条里呼称がなされていたと解釈した。しかし、律令の条里プランにおいては、郷界で呼称が変わるとは考えられない。そもそも、郷は、五〇戸を単位として、人為的に編成されたものであるから、当初は、郷界そのものが存在しなかったと考えられる。日野104も新稿では、全体を統一した里界線を引いて、坪並については、西南隅を一ノ坪、西北隅を三六ノ坪とする千鳥式を有力としている。
③下崎条里区
山崎川の旧流路に沿って検出される局地的な条里である。方位は、北二度東で、坪付小字名としては、下崎に「三十惣」(ジュウソウは、一般的に一三の意味なので、「三十惣」は、三三の意味)があるのみで、坪並は復原できない。
④長木条里区
二町程度の地割が検出されるのみである。
⑤馬場条里区
苅田町馬場の宇原神社付近に分布する六町程度の局地的な条里である。方位は、北九度西で、馬場の小字に「市ヶ坪」があるのみで、坪並の復原は不可能である。条里の位置から見て、刈田駅の駅田との関係や、『本朝世紀』長保元年(九九九)三月七日条に見える宇佐弥勒寺領の宇原荘との関連が考えられよう。