五八九年、隋が中国を統一し、東アジア世界に再び大帝国が成立したことは周辺諸国に大きな影響をもたらした。百済、高句麗、新羅の朝鮮三国は相次いで隋に入貢し、隋を中心とする国際的な秩序の中に編入された。高句麗はその後、隋との関係を悪化させ、七世紀の前半三回にわたり隋による高句麗侵攻が行われた。
一方、百済と新羅も旧伽耶地域の領有をめぐって対立し、倭国も『日本書紀』に「任那(みまな)」と記される旧伽耶地域における権益を維持するために、六世紀末と七世紀初めの二度にわたり、筑紫まで数万の軍を派遣し新羅に対して軍事的威嚇を行った。
推古一五年(六〇七)、倭国は隋に外交使節として小野妹子らを派遣。朝鮮三国をはじめ東アジアの国々が隋の冊封(さくほう)体制に組み込まれていく中で、倭国は朝貢はするが冊封は受けないという独自の関係を結んだ。
一連の外交政策は、推古一九年(六一一)新羅から「任那」の調が入貢されるなどの成果をみせている。百済も新羅との対立関係から倭国に度々入貢し、隋と対立する高句麗からも使者が送られるようになり、倭国は東アジア世界の中で一定の地位を築いた。また、知識・制度・文物・人材など多くのものが朝鮮半島から急速にもたらされた。
一方隋は、度重なる高句麗への遠征とその敗退などによって国内が疲弊し、各地に反乱が勃発(ぼっぱつ)、六一八年滅亡に至り、かわって唐帝国が成立した。
唐が帝国を再建すると高句麗、百済、新羅は唐の冊封を受け、国際関係はひとまず安定する。倭国も舒明二年(六三〇)遣唐使を派遣し、唐と国交を開いたが、隋の時と同様に冊封を受けることはなかった。
唐帝国の成立によって一旦(いったん)は小康を得た国際関係であったが、それは決して長くは続かなかった。
六四二年、百済が新羅に侵攻し、旧伽耶地域の領土を奪回したことに端を発し、領土と城の争奪が繰り広げられた。唐は六四四年に高句麗遠征を開始し、六四五年、六四七年、六四八年と再征を繰り返すが高句麗を制圧するには至らなかった。唐による高句麗遠征が繰り返される中で百済の新羅への侵攻も続いた。
新羅は、百済や倭国に対抗するため唐に接近し同盟関係の確立につとめた。これに対し百済は次第に唐との対立を深めていった。六五五年、唐による高句麗遠征が再開されるが、これに前後して高句麗・百済は新羅に侵攻し三〇余城を奪取し戦火は拡大していった。
このころ倭国は百済の旧伽耶地域の領有を認める一方、唐服で来朝した新羅の使者を詰問するなど一貫して親百済、反新羅の外交方針であった。