百済の滅亡と倭国の出兵

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 新羅からの強い救援要請を受けた唐は高句麗と同盟する百済を叩く意図もあり、百済に出兵した。斉明六年(六六〇)三月、蘇定方に率られた一三万の大軍が海上から錦江をさかのぼって百済の都扶餘に迫り、新羅軍五万は陸路百済領に侵攻、唐・新羅軍により包囲された義慈王は七月一八日降服し、百済は滅亡した。
 しかし、唐と新羅軍は、百済領内の要所を点的に制圧したにすぎず、唐が軍の主力を再び高句麗征討に向けると、鬼室福信ら百済の遺臣たちは国の復興を目指して各地で立ち上がった。
 斉明六年一〇月、百済の遺臣は倭に使者を送り、援軍の派遣と当時「質」として倭にいた百済の王子余豊璋の送還を要請してきた。斉明女帝を中心とする倭国の朝廷は百済への支援と朝鮮半島への軍事介入を決意する。
 斉明六年一二月には斉明天皇自ら難波に行幸し、兵器の調達と造船を命じ、半島への派兵の準備を開始した。翌、斉明七年(六六一)正月には朝廷をあげて前線基地である筑紫に向けて難波津を出港した。
図21 百済の役当時の東アジア情勢
図21 百済の役当時の東アジア情勢

 この百済復興支援戦争「百済の役」は、戦いの最終局面であるわずか二日間の白村江の戦いがクローズアップされがちであるが、実際は斉明七年一月の斉明の西下から天智二年(六六三)九月の半島からの撤退まで、二年九ヵ月間の長期にわたる戦いであった。後の日清戦争が約九ヵ月間、日露戦争が一年四ヵ月間であったことから考えても「百済の役」が当時の倭国にとっていかに大規模な戦(いくさ)であったかがわかる。
 斉明天皇らは、西下の途中、伊予の熟田津(にぎたつ)の石湯行宮(いわゆのかりみや)(愛媛県松山市)に滞在し、筑紫の那大津(なのおおつ)(博多湾)に到り、磐瀬(いわせ)行宮(福岡市)に入ったのはようやく三月二五日であった。この間、兵力の動員や国内の戦事体制の確立、前線基地の設置などが急速に進められたものと考えられる。神籠石など九州北部から瀬戸内海沿岸に分布する古代山城のなかには、このころ築造あるいは修築されたものもあるであろう。斉明天皇が筑紫における拠点とした朝倉橘広庭宮に移ったのは、さらに一ヵ月半後の五月九日のことであった。しかし高齢の斉明天皇は、朝倉宮に移って間もない同年七月二四日に死去した。以後倭国では中大兄皇子が皇太子のまま称制という形で天皇位を代行し、唐、新羅との戦の指揮をとることとなった。
 天智元年(六六二)八月ないし九月、倭国は五〇〇〇の兵とともに皇子豊璋を百済に送り届けた。百済では豊璋が百済王に即位。復興の気運も高揚し、半島での状勢は百済側に優位に展開した。六六三年二月に新羅が反撃に転じると、百済の復興運動にも翳(かげ)りが見えはじめるが、これに対し倭国は、六六三年三月新羅を後方から牽制するため二万七〇〇〇人の大軍を派兵した。新羅領に上陸した倭国軍は新羅の二つの城を奪取している。
 このころ百済の上層部には結束の乱れが生じ、六六三年六月、豊璋によって鬼室福信が殺害される。復興運動の中心人物であり有能な軍事指導者でもあった福信が欠けたことは百済にとって大きなダメージとなった。こうしたなか、唐本国から増援部隊が派遣され、新羅軍と合流し、一気に水陸から百済軍の拠点、周留城攻略をめざした。八月一七日、唐・新羅連合軍は周留城を包囲し、唐の水軍も周留城に船を進めた。
 一方、天智二年(六六三)八月二七日、新たに百済救援に向った一万余の兵力からなる倭国の水軍が白村江に到着。百済復興の命運をかけた白村江の戦いの火蓋(ひぶた)が切って落とされた。この日、倭の水軍の攻撃は唐の水軍に退けられ、翌二八日に決戦が行われた。倭国水軍の再度の攻撃は、待ち構える唐の水軍に左右から挟撃され、兵船四〇〇艘を焼かれ大敗した。
 豊璋は逃亡を図り、九月七日には百済軍の拠点周留城も陥落し百済再興への夢はここに潰(つい)えた。百済の遺臣の多くは倭へ亡命することとなり、倭国軍はこうした遺民を伴い半島から撤退し、長期にわたった百済の役も倭・百済軍の敗北をもって終結した。