敗戦後の倭国の防衛体制

584 ~ 586 / 761ページ
 倭国は白村江の敗戦で半島からの撤退を余儀なくされたのみならず、唐・新羅連合軍の侵攻も予想される事態となった。
 唐と新羅は、旧百済領の統治に追われ倭国にまで侵攻する余力はなかったと考えられるが、倭政権が六六四年より本格的な国防体制の整備に取りかかったことは『日本書紀』・『続日本紀』の記事からも読みとれる。
 
六六四年(天智三)対馬嶋(つしま)・壱岐嶋(いきのしま)・筑紫(つくし)国等に防人(さきもり)と烽(すすみ)とを置く。また筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城(みずき)という。(日本書紀)
六六五年(天智四)八月 達率答㶱春初(だちそちとうほんしゅんそ)を遣わして城を長門(ながと)国に築かしむ。達率憶礼福留(おくらいふくる)・達率四比福夫(しひふくぶ)を筑紫国に遣わして大野(おおの)及び椽(き)二城を築かしむ。(日本書紀)
六六七年(天智六)一一月 倭(やまと)国高安城(たかやすのき)・讃吉(さぬき)国山田郡の屋嶋城(やしまのき)、対馬国の金田城(かなたのき)を築く。(日本書紀)
六六九年(天智八)八月 天皇高安の嶺に登りまして議(はか)りて城を修めんとす。なお民の疲れたるを恤(めぐ)みたまひて止めて作りたまはず。(日本書紀)
六七〇年(天智九)二月 冬 高安城を修(つく)りて畿内の田税(たちから)を収む。(日本書紀)
六七五年(天武四)二月 天皇、高安城に幸(いでま)す。(日本書紀)
六七九年(天武八)一一月 初めて関を龍田山、大坂山におく。よって難波に羅城(らじょう)を築く。(日本書紀)
六八九年(持統三)九月 直広参石上朝臣麻呂(じきこうさんいそのかみのあそみまろ)、直広肆(じきこうし)石川朝臣虫名(むしな)等を筑紫に遣わして位記を給送す。かつ新城を監(みたま)う。(日本書紀)
 一〇月 天皇高安城に幸す。(日本書紀)
六九八年(文武二)五月 大宰府をして大野、基肄(きい)、鞠智(くくち)の三城を繕治せしむ。(続日本紀)
 八月 高安城を修理(おさ)む。(天智天皇五年築城也)。(続日本紀)
六九九年(文武三)九月 高安城を修理む。(続日本紀)
 一二月 大宰府をして三野、稲積の二城を修せしむ。(続日本紀)
七〇一年(大宝元)八月 高安城を廃してその舎屋、雑儲の物を大倭(やまと)、河内(かわち)二国に移し貯う。(続日本紀)
七一二年(和銅五)正月 河内国高安の烽を廃(や)めて、始めて高見の烽及び大倭国春日(かすが)の烽をおく。以つて平城に通(かよ)わしむ。(続日本紀)
 八月 高安城に行幸(みゆき)す。(続日本紀)
七一九年(養老三)一二月 備後(びんご)国安那郡の茨城(うばらき)、葦田郡の常城(つねき)を停む。(続日本紀)
 
 年次を追って見ていくと、まず対馬・壱岐・筑紫に防人と烽を置き最前線地域の防衛力強化と情報通信システムを整備するとともに、九州の防衛の拠点となる大宰府を守るため、長さ一・四キロメートルに及ぶ大規模な土塁「水城」が築かれる。
 天智四年(六六五)には百済の亡命高級官僚の指導のもと、長門(山口県)および筑紫の大野城(福岡県)、基肄城(佐賀県)の築城が開始された。
 天智六年(六六七)には高安城(大阪府・奈良県)屋島城(香川県)金田城(長崎県対馬)などが築かれた。文献に記されるだけでもかなり急ピッチに軍事施設が整備されていった様子が窺(うかが)える。
 このように白村江の敗戦後、倭政権は唐と新羅を当面の敵として国防体制の強化を図っていった。
 さて、六六七年以降は新たな築城記事は見られず、すでにつくられた城の修理や維持管理の記事が中心となり、大宝元年(七〇一)以降になると山城の廃止の記事が目立つようになる。
 六六六年、唐は、高句麗征討を再開し、六六八年九月唐・新羅連合軍により、ついに高句麗は討滅される。これによって唐と敵対していた倭の国内には緊張感が高まったが、朝鮮半島の統一を目指す新羅は唐との戦いに備えて倭国に和解のため使節を派遣してきた。
 倭国は新羅との友好関係を維持するとともに、天智九年(六七〇)には遣唐使を派遣し、緊張緩和に努めた。六七〇年七月、唐と新羅は全面戦争に突入し、これにより、唐の倭国侵攻への危機は回避され、天智天皇の近江朝廷は、国内体制の充実にエネルギーを傾注していくこととなる。