百済の役に前後して着実に国防体制が強化されていったがその中でも目立つのが山城の築城記事である。
文献に名前が記される古代山城は、長門国の城(き)(長門)、大野城(筑前)、基肄(きい)城(肥前)、高安(たかやす)城(大和)、屋嶋(やしま)城(讃岐)、金田(かねた)城(対馬)、鞠智城(肥後)、三野(みの)城(?)、稲積(いなづみ)城(?)、茨城(いばらき)(備後)、常城(つねき)(備後)、怡土城(いとじょう)(筑前)の一二城である。しかし、これら以外にも古代山城と考えられる遺跡が西日本各地で発見され、その数は現在一六城に及ぶ。
日本の古代山城を考える場合、前者の文献に記録の残る山城を「朝鮮式山城」、後者の文献に記載されない山城を「神籠石(こうごいし)系山城」と分類することが多い。「朝鮮式山城」とは、『日本書紀』天智紀にみられるように、亡命百済官人が築城に関与した事例があることから付けられた名である。神籠石とは当初北部九州と山口県に分布する切石列石を伴う山城遺跡の呼称であったが、その後中国・四国地域などから文献未記載の古代山城が続々発見されるに及び、これらを含めて文献未記載の山城を広く「神籠石系山城」と呼ぶようになったものである。
しかし官撰史書に記される一二城のうち比定地が不明確な三野城・稲積城や、持統天皇三年の「新城を監う」という記事の「新城」も、現在、神籠石と呼ばれている山城のいずれかに該当する可能性もある。またいわゆる朝鮮式山城以外の山城も朝鮮三国の技術を取り入れて築城されたことは間違いない。さらに文献に記載される山城にしても、その築造年次や築造の背景が記され編年の指標になりうるのは、天智紀記載の六城と天平勝宝八年(七五六)に対新羅遠征計画に伴って築かれた怡土城のみで、ほかは修理や停廃記事のみで築造年次はわからない。一方各地の古代山城の考古学的調査でも、こうした文献記載の有無で単純に分類できないことがわかってきた。
こうした一連の古代山城が築かれるまでは、我が国には大規模な土木工事を伴う本格的な城郭的防衛施設は存在しなかった。どのような契機で、いつ、また何を目的としてこのような大土木工事が行われたかを考えることは重要な課題であろう。