各地の古代山城

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 まず『日本書紀』の天智紀に記載されている築城経緯の鮮明な山城から見ていきたい。
 長門国の城は天智四年(六六五)達率答㶱春初の指導によって築かれたとされる。『書紀』には「城を長門の国に築かしむ」とのみあり、城名は不明である。また候補地は複数あり、度々踏査も行われているが、城の遺構が未確認であるため場所が特定されていない。関門海峡を押えるため長門国には築城されてしかるべきところであるが、遺構が確認されないことから築城されなかったのではという見方もある(倉住靖彦、一九九四)。
 
図22 西日本の古代山城分布図
図22 西日本の古代山城分布図

表7 西日本の古代山城一覧
表7 西日本の古代山城一覧

 大野城は大宰府政庁背後の標高四一〇メートルの四王寺山にある山城。百済の亡命官人、達率憶礼福留・達率四比福天らの指導によって、天智四年に築かれた。城の外周は、六・五キロメートルに及び、国内で最大規模の山城である。北側と南側では、土塁が二重に巡っている。外郭線は土塁が主体であるが、要所には百間石垣のような石塁を築く。城内には、七〇棟を超える倉庫群が存在する。
 
写真5 大野城大宰府口城門
写真5 大野城大宰府口城門

 基肄城は佐賀県三養基郡基山町に所在する。大野城と同様、天智四年(六六五)に、憶礼福留・四比福夫らの指導により築かれた。北の大野城とともに、大宰府の南の守りを堅める城である。全長四・三キロメートルで、三つの城門がある。城内には、四〇棟以上の礎石建物が確認されている。
 高安城は天智六年(六六七)の築城記事で始まり、修理や行幸の記事が記録に残されている。王城を守る最後の拠点として、重要な城であるが、長く所在が不明であった。昭和五七年、礎石建物跡が発見され、存在が確認されたものの、城の外郭線などは、まだ明確ではない。
 屋嶋城は『日本書紀』によると、天智六年に築かれたとされるが、高安城と同様、長く城の遺構が不明であった。近年ようやく、外郭線の石塁の一部が発見されるとともに、城門も発掘調査され、紛れもなく、古代の朝鮮式山城が存在することが確認された。確認された城門遺構は、門道の幅四・五メートルから五・四メートルの大型の門である。
 金田城は国防の最前線対馬に築かれた山城である。築城年次は、『日本書紀』によると、天智六年(六六七)。浅茅湾をひかえた下島の北端の要害城山に選地する。全周約二・八キロメートルの外郭線は、日本では珍しい石築構造である。四ヵ所の門跡があり、門礎などが確認されている。
 
写真6 金田城の石塁
写真6 金田城の石塁

 以上の六城が天智紀に記載され、築城の時期などが明確な山城である。
 次に文献には記載が見られるが、修理や停廃の記事のみで築かれた時期や目的が不明確な山城をみていこう。
 鞠智城は、文武二年(六九八)に修理の記事が見られる。遺跡は、熊本県鹿本郡にあり、全周は約三・七キロメートル。城内から、倉庫や兵舎のほかに、八角形建物や貯水池跡なども確認されている。
 文武三年(六九九)に、大宰府によって修理されたとされる三野城、稲積城は、所在地について幾つか候補があるものの、確定されるには至っていない。備後の常城と茨城も養老三年(七一九)に停廃記事が見えるものの、現在まで所在地は確認されていない。
 さて、西日本には、これら文献に記される一連の城以外に、各地で古代の山城が確認されている。これらを一括して、「神籠石系山城」と呼ぶ場合もあるが、文献記載の有無からのみで、遺跡を分類するのは考古学的に問題があることは先述したとおりである。ただし現在遺跡名として、「○○神籠石」と呼ばれる九州の九遺跡(鹿毛馬、雷山、杷木、高良山、女山、帯隈山、おつぼ山、御所ヶ谷、唐原)と山口県の石城山神籠石の一〇遺跡については、外郭土塁線の基底部に切り石の列石を連ねることを共通の特徴としており「神籠石式山城」として分類することは可能であろう。こうした典型的な神籠石タイプの城のほかにも、宮地岳城(福岡県)、鬼ノ城(きのじょう)(岡山県)、大廻小廻(おおめぐりこめぐり)山城(岡山県)、播磨城山(きのやま)城(兵庫県)、永納山(えいのうさん)城(愛媛県)、讃岐城山(きやま)城(香川県)がある。この中でも鬼ノ城は、近年、発掘調査が進み、大野城と共通する門礎や角楼と呼ばれる城壁に設けられた張り出しが確認されるなど文献未記載の山城の中にも天智紀の山城に遜色(そんしょく)ない先進的な構造をもつものが存在することが明らかになった。古代山城の発展過程を考える上でも注目される遺跡である。
 
写真7 鬼ノ城西門跡
写真7 鬼ノ城西門跡