現在、北部九州から山口県にかけて、「○○神籠石」と呼ばれる遺跡が、一〇遺跡ある。この遺跡名の由来は、福岡県久留米市の高良山にある列石遺構が明治三一年(一八九八)に「神籠石」として学界に紹介されたことによる。山中を巡る列石遺構と、谷に設けられた水門石塁を特徴とする同様な遺跡は、その後相次いで発見され、高良山の例にならい神籠石と名付けられていった。
明治から大正期にかけてこれら遺跡の性格を巡って、いわゆる「神籠石論争」が展開されたが決着をみるに至らなかった。昭和三八年(一九六三)より、おつぼ山神籠石(佐賀県)、石城山(いわきさん)神籠石(山口県)、帯隈山(おぶくまやま)神籠石(佐賀県)が相次いで発掘調査され、列石上の版築土塁が確認されたことにより、神聖な場所を区画したとする霊域説は退けられ、朝鮮半島の技術的影響の下に築城された山城遺跡と考えられるようになった。
官撰史書に末記載の山城を一括して便宜上、「神籠石系山城」と呼ぶこともあるが、ここでは先に述べた切り石の原則一段の列石を土塁基底部に連ねるタイプの山城を「神籠石式山城」として考えていきたい。
おつぼ山神籠石および石城山神籠石の調査以来、神籠石式山城の発掘調査も各地で行われ、徐々にではあるが遺跡の性格が明らかになりつつある。