神籠石式山城はいわゆる天智紀の山城と異なり、築城に関する明確な記録が残されてないため、築城の目的や時期が問題となっている。城の規模や分布状況などから、これらの城は地方豪族が自らのために築いたのではなく中央政権の主導で国家事業として計画的に築かれたものと考えられる。
築造時期は七世紀であろうというのは多くの研究者の一致した意見であるが、七世紀のどの時点かということになるといくつかの見解がある。特に、天智紀山城との新旧関係は意見が分かれるが、切石という先進的技術を用いながらも、城郭としての機能が未成熟な一部の神籠石式山城は、天智紀山城に先立って築造が着手されていたと考えるのが妥当ではあるまいか。時期問題については、城門など個別の遺構の編年も行われつつあり、今後の各地の発掘調査の進展に伴い、次第に明らかになっていくであろう。
築造の目的については、唐や新羅などの侵攻を想定しての対外防衛的なものとする見方に対し、律令国家形成過程の国内対策の一環として地域勢力に対する中央政権の軍事拠点と見る説がある。しかし、この種の山城が東国にはなく、西日本に偏在することは、地域支配の完遂という意図が別にあったにせよ、直接的動機は対外的緊張に端を発し、周辺諸国に伍していくだけの国防体制の整備を目指したものであったと考えられる。対外的緊張が緩和された後には、山城の意義も変質し、律令支配を支える軍事拠点としての役割が付与されたことも十分考えられるが、当初は国内よりも、東アジアの情勢を強く意識し、それまで手付かずであった山城による防衛網を、急ピッチで整備していったのが実状であろう。